ショコラの日曜日

水玉物語#091パステル

いつか
世界は
大逆転するの
 この街はおかしな街で、街並みはひっくり返したおもちゃ箱のようにデタラメで、パステルカラーのかわいらしいもので溢れているけれど、その中で暮らす人々といえば、インチキな儲け話をするか、汚い言葉で罵り合うか、人生を絶望しているのです。そのなかを三時になればパレードが通り、工場で作られる甘いお菓子の匂いが街中を包んでいます。

 こんなところに住んでいたら、気が狂ってしまう。皆そう言って嘆きます。

 ショコラはこの街の生まれです。生まれた時からこの狂った街で、暮らしています。時々、おかしくなりそうになったら、逆立ちします。逆立ちすると、世界が違って見えます。

「ショコラ。あんたって本当に惨めよね。こんな街で生まれて親にも捨てられ、工場で朝から晩まで働いても貧しくて、唯一の良い所は頭の上から足の先まで、美味しそうな甘い匂いがするってことくらい」

 ショコラはそれでもこの街が好きです。気が重くなるようなこの街の薄汚れた日々には、いつか奇跡が起きて、ひっくりかえるのではないかと思わせる、とびきりワクワクする瞬間があるのです。それからこの街の人たちは決して悪い人たちではないと思うのです。汚い言葉で罵らないと、真面目に働かず楽をして儲けることを考えなければならないほど、落胆しているだけなのです。希望がどこにも見つからなくて。

「私ね、なぜだか分からないけど、いつか日曜日に奇跡が起きる、そんな気がするの」とショコラが言うと、
「まったく馬鹿な子だよ。奇跡なんて起きるはずがない。そんな馬鹿なこと言ってると家賃を釣り上げるよ」とアパートの大家さんは言いました。

 それでもショコラは毎週日曜日になると、長いきいろの髪を三つ編みにして、早くに家を出ます。そして近くのカフェで道ゆく人たちを眺めたり、当てもなく通りを歩いたりして奇跡がやってくるのを待っているのです。
 
 いつものカフェでマカロンを齧りながら、ショコラは今がどんなに惨めでも、いつか奇跡が起きて世界は一変すると思っているけれど、賭け事に負けてうなだれて歩く人や、大儲けして札束を抱え込む人を眺めていると、なぜそんなことを思うのか不思議にもなります。それでも目を閉じると、いつも予感はそこにあるのです。そしてショコラの心を夢の中へさらっていくのです。
 そして、ついにその日はやってきました。ショコラにはすぐにわかりました。今日がその日だと。なにを見ても、見てなくても、胸がドキドキするのです。
 ショコラは家を飛び出すと、通りで会う馴染みの人たちに言って回りました。
「聞いて聞いて、路面電車の車掌さん。今日は奇跡が起きるのよ」
ボロボロの車掌帽を頭に乗せた男は返事の代わりに「どかないと轢き殺すぞ」と壊れた路面電車の汽笛を鳴らしました。
「奥さん、聞いて。今日は胸がとてもドキドキするの」
お腹の大きい奥さんは編み物をしながら、「うるさいね、目を間違えちまったよ」とこぼしました。
「ピエロさん、聞いてよ。奇跡ってなんて素敵な響きなのかしら」
ショコラは疲れ切ったピエロの両手をとってダンスを踊りました。
「希望とは、何と迷惑なことだ」とピエロは小さくつぶやきました。

 何を言われても、ショコラの心は風船になって空高く登っていきました。
 
 
 けれど、その日の夕暮れになっても奇跡は起きませんでした。ビスケット通りにもフロスティン公園にも角砂糖の階段にも奇跡は待っていませんでした。朝には飛び跳ねていたショコラも、夕暮れにはとぼとぼ歩くようになりました。お腹もすいたし、足も疲れました。予感は確かに続いているけれど、予感だけがふわふわと浮いているようにも思えました。

 その上、突然、黒い雲が空を覆い叩きつけるような強い雨が降ってきました。ショコラは慌てて最近できたばかりのピンクの塔の下に逃げ込みました。同じように逃げ込んできた濡れそぼった犬が所在なく隣に立っていました。ショコラと犬は強くなる雨をじっと見ながら立ち尽くしていました。

 悲しくなりました。今までどんなことがあっても、いつだって乗り切ってきたのに。今回はダメです、絶望に捕まってしまいました。

 ショコラは涙がこぼれないように、隣で同じように濡れてしょんぼりとうなだれた犬を抱き抱えました。
「あったかいな、君は」
 
 ショコラは雨に濡れるのも構わず、犬を抱えたまま歩きました。

 すれ違う人たちが、「ショコラ、そのみすぼらしい犬があんたの奇跡かい?ずいぶんと冴えない奇跡もあったもんだ」と笑いました。ショコラは何も言いませんでした。ただ犬をしっかり抱えたまま、通りを歩き、扉を開け、階段を登り、部屋に戻るとお湯を張って、バスタブに沈みました。泡で汚れを落とし、ゆっくりと温まって、着替えると犬を乾かしました。

 その頃には雨は止んで、窓の外には星が見えました。ショコラは何も思いませんでした。もう何も願いませんでした。奇跡のことも考えませんでした。

 窓を閉めて、犬を抱き上げると一緒にベッドに入りました。眠る前に明日になったら、犬に名前をつけてあげなくちゃと思いました。
 ショコラはまだ気づいていないけれど、奇跡はちゃんと起きていたのです。彼らが出会ったことこそが奇跡そのもの、本当は決して出会うはずのない二人だったのです。例えば、それは生まれる前の世界で再び会うことを約束した二人が、長い時の旅をしてやっと出会えたように。犬と人ですけれど。

 そして、日々の中に一つでも奇跡が起きたことで、運命はまったく違う方向へ進み始めたのです。逆転したのです。明日、目を覚ましたら、そこは同じ街に見えても、奇跡を待ち続ける日々ではなく、奇跡の起き続ける日々なのです。奇跡はたった一度ではないのです、それは始まりなのです。

大丈夫だよ。予感は決して
幻じゃない。例え小さくても。