水玉物語#094 ハピネス
ある男がトランクを一つ持って、その美しい浜のある街にやってきました。男はここから遠く離れた街で、道化を生業としていました。あちこちから声のかかる人気のある道化です。名をアルミジャーノと言いました。 アルミジャーノは長い間、化粧で素顔を隠し、華やかな衣装を纏い、音楽を奏で、通りを練り歩いたり、サーカスの舞台に立ったり、お祝いの席を盛り上げたり、人々の笑顔を引き出すことに喜びを感じてきました。笑顔を引き出すことは何より人を幸せにしていると思えたからです。けれど、この頃、そこに疑問を感じるようになりました。 きっかけは思い出せませんが。 「つまり、僕が彼らに笑えるようなことを言うから彼らは笑うだけ」裏返すとこういうことです。「僕が彼らを悲しくするようなことを言えば、彼らは笑わない。傷つけるようなことを言えば、僕を毛嫌いし、石を投げるかもしれない。」 そんなこと当たり前のことだろうと、思うかもしれませんが、アルミジャーノにとって、それは彼の人生を揺るがすようなことでした。人を笑わすことに神様の存在のようなものを感じていたからです。でも神様は言葉一つで簡単に悪魔にもなれるということです。 アルミジャーノは休暇を取り、道化の衣装を脱ぎ、化粧を落とし、簡素な衣服に着替えて船に乗りました。船の中で会った人たちは、彼をきっと寡黙な美しい青年だと思ったでしょう。アルミジャーノはもう人を笑わすことに喜びを見いだせなくなったのです。むしろ、こちらの言葉で笑いもし怒りもする人間自体を、よくわからないものだと思うようになりました。 アルミジャーノはその街に着くと、固いパンをかじりながら街を一周して、表通りから少し離れた、海に側にある小さな家を借りました。そして毎日、朝から晩まで日光浴をしたり、本を読んだりして過ごしました。 その少女は気がつくといつも浜辺にいて、熱心に砂で何かを作っていました。アルミジャーノが何を作っているのかと尋ねると、「私は海の底から来たの」と答えました。砂で作っているのは海の底にある街なのだと言います。アルミジャーノは考えることに疲れていたので、言葉のたどたどしい笑わないこの少女を、とても心地よく思いました。 彼女の名前はクラウディアと言いました。 その夏の間中、二人は一緒にいるともなく、いないともなく、同じ浜で朝から日が暮れるまで過ごしました。クラウディアと過ごすうちに、アルミジャーノの心はいつのまにか少年に戻っていくようでした。 クラウディアは海の底の話をしてくれました。海の底の国は豊かだったけれど、長い時の中で何度も戦いや侵略を繰り返し、みんなどこかへ行ってしまった。残されたクラウディアはとても寂しくて、誰か心が分かち合える人がいないかと、地上にやってきたと言いました。けれど、やはり私は海の底の街が大切だから戻らなくてはいけないと。たどたどしい言葉でしたが、アルミジャーノには理解できました。
ある日、浜辺の家を貸してくれた人が、 「かわいそうに。あの子はもうすぐ街に連れ戻されるんだよ。どこか施設みたいなところに。それは厳しいところだよ。ムチで打たれたりするそうだ。かわいそうに、ただ普通と違うだけで、何も害のない子なのに」と、彼女はアルミジャーノにクラウディアが、もうじきどこかへ行ってしまうことを告げました。 アルミジャーノの胸はとても苦しくなりました。クラウディアは笑いもせず、泣きもせず、もうじき海の底に帰らなくてはいけないと言います。なぜなら、私がその街が好きだから。きっと街が寂しがっていると。次の満月の夜には旅立つと。 アルミジャーノは選別に、何かクラウディアが楽しくなるようなお話を贈ろうと思いましたが、もう彼には道化の頃にすらすらと口から出てきた笑い話は、一言も語れませんでした。 その代わり、一つ、物語を送りました。それはただ現実をなぞって希望を加えただけの小さな物語でしたが、クラウディアは目を閉じてその話を聞きました。
『ある道化の男が、人を笑わすことに疲れて、小さな街へやってきました。そこで毎日、浜で会う少女と仲良くなりました。少女は海の底の国からやってきた人魚でした。人魚の国はいつのまにか誰もいなくなってしまって、一人ぼっちになった人魚は寂しくて、地上まで泳いできたのでした。そして、道化と仲良くなりました。二人は夏の間、その浜で人魚の住んでいる海の底の街を砂で作ってすごしました、でもそれが完成する頃、人魚は海に帰らなくてはいけないと言いました。 別れの前の晩、道化は少女に話を聞かせました。その人魚は明日の満月の夜から、長い時間をかけて海を泳いでいくと、そこにはいつのまにか長い時がすぎたのか、戻ったのかわからないけれど、誰もいなくなったはずの街には、またたくさんの人魚や魚たちが暮らしていました。そして、戻ってきた人魚を彼女の姉妹や両親たちが暖かく迎えてくれました。そして彼女はその街でそれからも幸せに暮らしました。その少女の人魚の勇気と思いが夢を叶えたのです』
最後にアルミジャーノはクラウディアの目を深く覗きこんで言いました。 「いいかい、これが本当の話だよ。現実がどんな風に見えても、この話を信じているんだよ。これが君の本当の物語だよ。」 クラウディアはその物語を聞くと、はじめて微かに微笑みました。その笑みを見たアルミジャーノのいままでどんな話をして引き出した笑顔より、嬉しいと感じました。
その後、クラウディアはいなくなり、アルミジャーノもトランクに荷物をつめて街に戻りました。アルミジャーノは道化の仕事には戻らず、物書きになりました。悲しいことや、どうにもできないことに現実に、そっとおとぎ話を書き加える物書きです。それは道化の仕事ほどは華やかではありませんでしたが、本物の笑顔をたくさん見ることができました。小さな劇場で、アルミジャーノの書いた物語を演じ、みんなで涙することもありました。 それから数年が経ちました。 アルミジャーノはまたこの浜にやってきて、同じ家を借りました。毎日、日中は浜辺で何をするでもなく過ごしました。しばらく経ったある日、そこに一人の女の人が現れました。彼女は何をするでもなく砂浜に立っていました。 それはクラウディアでした。彼女は以前よりずっと成長していましたが、同じ深い海のような目をしていました。そしてにっこり笑っていいました。 「長い時間泳いで海の底に戻ったら、海の底の街には前のようにみんながいて、毎日楽しく暮らしました。私は前のように街が戻ったことが嬉しかった。安心した。でも次第にこう思いました。もう一度、地上で出会った友達に会いたいと。その友達がくれた物語のお礼に渡したいものがあると。だから、月のきれいな晩に、長い時間泳いで再び地上にやってきました。これが私の本当の物語です」 クラウディアは小さな古びた宝箱をアルミジャーノに差し出しました。それを受け取ったアルミジャーノは涙がこぼれました。 「ああ、そうだね。それが君の本当のお話だったよ。その続きを書いたんだね。素晴らしいよ。ではそのさらに続きを書こう。僕たちにならどんなこともかけるだろう。幸せそうでよかったよ。ああ、本当によかった」 誰かがくれた微笑みに、こんなに涙を流したのははじめてでした。 これが本当の僕の物語だよ。