東の空に浮かぶ紫の雲

水玉物語#095サーカスシティ
東の空に紫の雲
 それはかつて、「東街」と呼ばれた、今のパステルやファラウェル、サーカスシティが分かれる前の街です。この街は長い間、戦いの中にありました。

 この街が戦いを始めた理由は平和過ぎたことにありました。東街は塀に囲まれた美しい街でしたが、平和が続くと、街にはどんどん無駄な規則が増え、勝手な理由で街は作り替えられていきました。そこに暮らす人々も自分のことばかり主張し、無意味なことを競い、誰も街全体のことを考えなくなりました。

 ある日、それを嘆いた若者たちが旗を上げ、平和に甘んじるものたちに攻撃を仕掛けました。攻撃といっても小さな悪戯のようなものでしたが、彼らは「カステラ」と名乗り、大人たちに目を覚ましてもらおうとしました。

「カステラ」の主張は正しかったけれど、やり方は間違っていると、同じように街を守ろうとしていた別の勢力「フロスト」が彼らを止めようとしました。戦いを仕掛けたものたちも、止めるものたちも、この美しい街を守りたいという意思は同じだったはずなのに。いつしか戦いは悪化して、今ではなんのために戦っているのか、わからなくなり、東の街は絶えず戦っているだけの街になりました。

 「カステラ」を率いるチアと「フロスト」を束ねるタムは幼馴染でしたが、いつしか敵同士として戦うことになりました。けれど、これは戦いという名の一つの、通過点なのだと信じて進みました。

 彼らが本当に打ち壊したかったのは、平和の中で自分の満足のためだけに作られたルールであり、自己や家族を守るための身勝手な主張でした。けれど、それを作った人々は、争いの発端にも気づかないまま、遠に街を放り出して逃げ出していました。

 そして、もうこの街に残されて戦い続ける彼らも、街も疲れ果てていました。
 

 そんなある日、春風がどこからか吹いて、ふと戦いの手がやんだ一瞬の隙に、何処かからやって来た、見たことのない美しい道化が、華やかな音楽と共に、一冊の薄い書物を配りました。人々は彼の登場に驚き、武器を下ろしその書物を手に取りました。そこには美しい絵と小さな物語が描かれ、おしまいに「東から紫の雲がやってきて、世界は一変する」と書かれていました。

 あまりにも絶望していた人々はそれを、紫の雲がやってきてこの世界を終わらせてくれる希望だと信じました。

 チアは最後まで戦ってこの街を自分たちの手で取り戻したいと思いました。そんな風に、ただ終わりが来るのを待つなんて嫌だと、みんなをその儚い夢から覚まそうとしたけれど、チア自身もいったい何と戦っているのか、最後とはいったいどこなのか、わからなくなっていました。



 戦う相手のいなくなったチアは、争いもなく平和でもない街を歩き、街外れまでやってきました。半分崩れた壁の上に腰掛け、空と壊れた街を眺めました。こんなにゆっくりした時間が流れるのは久々でした。チアは空を眺めて、いったい私たちはどこへ向かっているんだろうと考えました。

 そこにタムが現れました。彼も同じ理由で懐かしいこの場所へやってきたのです。ここは幼いころ、二人の秘密の場所でした。


「ねえ、この戦いの発端を覚えている?」
「君のした小さないたずらのこと?」
「そう。あれは傑作だったね」

 二人は空を眺め、遠い昔を思い出していました。それは色あせたタペストリーに描かれた昔の話のように感じました。

「私ね、戦うことに意味があると思ってたんだ。平和な言葉を並べながら、少しずつ誰かを傷つけたり、虐げたりしているのはいつも戦わない人たちだったから」

「ねえ、タム。戦う以外に、生きているって感じられることってある?」 

 タムは目を閉じてその言葉を反芻しました。 

「そうか、僕たちは生きている証が欲しかったのか」タムが声に出さずそう思うと、もっと別の方法で生きている証を感じられる方法はないものかと考えました。そんな方法があれば、戦わなくていいのかもしれない。

 目をあげると東の空遠くに浮かんでいる紫の雲が見えました。
小さな船のような形をした、はっきりと色づいた雲が、ゆっくりゆっくりこの街に向かって進んでくるようでした。

「見てごらん、チア」

 チアはタムの言葉に東の空を見て驚きました。
「予言は嘘でもなくて、たとえ話でもなくて、本当に紫の雲がやってきた。あれが世界を終わらす何かなのかな?」
「さあ、ただの雲の塊に見えるけど」

 二人がそんな会話をしている間にも、紫の雲はどんどん街に近づいてきて、ついに頭上へとやってきました。

 その雲を頭上に見上げたチアは、思わず、
「きれい」と口にしました。

 夕暮れのピンク色の空に浮かんだ淡い紫の雲は、思わず見惚れるほど綺麗でした。あまりに大きくて、見ていると吸い込まれそうになりました。こんなに大きくて美しいものが空を、何を残すわけでもなく流れている、なんの主張もなく、争いも平和でもなく、ただ一瞬で目を奪うほど美しく。

「敵わないや」とチアの目に涙がたまりました。

 タムも雲を見つめながら

「ねえ、もしかして、生きてる証などいらないのかもしれない」と、つぶやきました。

 街の人々もあれこれと騒いでいましたが、頭上まで来るとみな口をつぐんで、その美しい雲を見上げました。そして雲はゆっくりとそのままその街を通り過ぎ、西の空へと流れていきました。残された人々はあっけにとられ、ただただ、去っていくその雲を見つめていました。

 チアとタムも流れていってしまった雲を見つめていましたが、長い戦いがたどり着いた世界の終わりに対して、あまりにもあっけない出来事に、笑い出しました。

 たった一つ浮かんだ雲が流れてきたそれだけです。

 それなのに、なぜでしょう。これまで心にあった、主義や主張や善悪や正義や希望も絶望も、憎しみも悲しみも、あとかたもなく消えてしまったのです。そしてここにあるのは、言葉にすれば、自由でした。

「さあ、これから何をしようか」
「まずは壊れた街でも修復して、それから、新しい街を作ろう」

 なにもない、軽い心、自由。

東の空に紫の雲
ゆっくり流れていく
どこかへ向かって
生きてる証を残さぬまま