サロメのピンクの傘

水玉物語#097千年街
君はどこからきたの?
そろそろ本当のことを
教えてくれてもいいだろう
 僕はよくお墓参りをした。そこは高台にあって、街が一望でき、季節ごとに風が吹き、大きな木の下に花の咲く、とても気持ちのいい場所だった。僕の両親も、祖父母もそこに眠っている。

 先祖の供養の気持ちが強くて、度々お墓参りに来ているわけではない、ただ気持ちが落ち着くのだ。僕は孤独ではあるけど、それなりに恵まれている。先祖代々の家もあるし、昔から世話をしてくれている人たちもいる。望んだ仕事にもついている。友人もいる。けれどそれでも、同じ血の繋がった一族というのは不思議で、そこでしかわかりあえないものがあるような気がする。たとえ、相手がもう生きていなくても。

 というわけで、僕は何かあった時も、何もない時もよくこの墓を訪れる。

 その日は何かあった日だ。僕は恋をしたのだ。ほとんど一目惚れで恋に落ちてしまった。相手は僕の家から少し離れた大きな屋敷に、お花の稽古に通っている女の人で、僕より少し年上かと思う。僕は家の前を通り過ぎた、花を抱えたその人を見た時、月並みだけど時が止まってしまった。人をこんなに好きになることがあるのかと驚いた。そして誰かを好きになると、両親が亡くなって悲しいとか、一人で大きな家にいる寂しさとかそんなものは一気になくなると知った。恋というのはすごいものだ。

 でも僕にはその美しい彼女に話しかける勇気もなく、ただ彼女がやってくる火曜日と金曜日にその姿を盗み見ることしかできなかった。だから今日はその気持ちをご先祖様たちに聞いてもらおうとやってきた。

「いったい僕はどうしたらいいのでしょうか?こんな気持ちになったのは初めてなのです」

 僕は花を供えながらそう呟いた。するとどういうわけか、さっきまで晴天だった空に稲光が光り、まもなく大粒の雨が降ってきた。僕は慌てて近くにあった木の下に飛び込んだ。街が流されるんじゃないかと思うような、気持ちが良いとさえ思えるくらいの雨だった。

 
 いつのまにか、隣に全身ピンクの服を着た女の子が立っていた。
「ねえ、この雨は当分止まないよ。私の傘に入れてあげようか」
と、ピンクの傘をくるくる回して見せた。僕は色々な意味で驚いて、上手く返事ができなかった。
「じゃ、決まり。さ、行こう。君の家まで送ってあげるよ」
と言われ、言われるままに傘に半分入り、高台からの下り坂を歩いた。

 その間、彼女はふわふわと何かの歌を歌っていた。

 僕の家の前まで来ると僕はありがとうとお礼を言って、別れようとしたけれど、ぐっと腕を掴まれ、こう言われた。
「私はこんな雨の中行くところがないの」
 もちろん僕は知らない女の子を泊めることはできないと断ったけど、見るともう夜に近い夕暮れだし、雨も止む様子もないし、僕の家には部屋もたくさん余っている。そんなことを思っているうちに、彼女は家に上がり込み、勝手にお風呂に入り、僕の服に着替え、ビールを飲んでいた。
「今日だけだからね。こんな風に知らない人の家に泊まるのは良くないと思うよ」と、たしなめたけど、彼女は聞いている様子はなかった。

 そのように彼女は僕の家に居ついた。名前をサロメと名乗った。サロメは呆れるほど非常識に家のものを勝手に使い、自分の家のようにくつろいで過ごした。その様子にはひとかけらの防御もなく、飾り気もなかった。僕は間違っていると抗議しながらも、そのことをどこか心地よく思った。

 そして僕はサロメにはなんでも言えた。仕事の愚痴も、自分に対する不満も、もちろん僕の好きな女の人のことも。サロメは歯に衣着せぬ言葉で僕をバカにしたり、なじったり、叱ったり、励ましたりしたけど、その言葉にはひとかけらの嘘もなかった。

 僕は思った。いつのまにか大人になって、小さな嘘をたくさん付くようになって、いつしかそれが当たり前になってしまっていたんだなと。僕はだんだんサロメといることが当たり前になってきた。

 ある日、サロメがカレンダーを眺めていて、急に大声をあげた。
「しまった時間がない」
「なんの時間だよ」
「うるさい。私の都合よ。さ、こうなったら、あんた、さっさとあの女を手に入れるのよ」
「なんでそうなるんだよ」
「いいでしょう。あんたのウジウジした愚痴は聞き飽きたのよ。見てるだけじゃなくて、さっさとものにしなさいよ」
「ものにするって」
「決まってるじゃない」
「話したこともないよ」
「じゃ、話しかけなさい」
「僕なんか相手するわけないよ」
「じゃ。相手される男になりなさい」
「無理だよ。そんなすぐに」

 ということで、サロメの特訓が始まった。僕はいろいろ言い訳をしたけど、彼女のやる気には鬼気迫るものがあった。僕はまず毎朝河原を走らされ、庭で竹刀を振らされ、何冊かの本を読まされ、いくつかの格言を繰り返し声に出した。メガネをコンタクトに変えて、髪をサロメの言う通りに切り、洋服を買いにつれて行かれた。
「あんたにはこういうのがいいのよ」
サロメは自分こそ全身ピンクの服を着ているのも関わらず、見立て上手だった。床屋の主人や眼鏡屋や洋服屋の店員も特にサロメに驚く様子もなかった。

「よしこれで、少しはまともに見える」サロメは仕上げた僕を見て満足そうに腕を組んだ。

 僕は連日の鍛錬でへとへとだったけど、サロメが殺気立つほどに僕の恋を応援してくれていることがわかって、心が温かくなった。僕はずいぶん孤独に慣れていたんだと思った。
 
 そして僕はサロメの立てた作戦の通り、彼女に声をかけ、デートに誘った。サロメに鍛えられた僕は不思議なほど、堂々と彼女の前に立つことができたし、もはや恋というよりもっと大きな試練の一つとして取り組むことができた。

 彼女は僕の突然の告白に驚いていたけど、静かに微笑んで頷いてくれた。
よし!僕は心の中でそう叫んで、すぐにでもサロメに報告したいと思った。

 サロメはその様子を通りの角からそっと見ていた。
「よしこれでもう安心だ」と少し悲しそうな顔をした。

 僕は憧れの彼女と約束をして嬉しいはずなのに、なぜだかサロメが僕の前からいなくなってしまうような気がして、慌てて家に帰った。家に帰ると、大声で名前を呼んだ。
「そんな大きな声を出さなくても聞こえているよ」
サロメは奥の間から出てくると、出会った日と同じピンクの服に着替えていた。

「どこへいくの」と僕はおそるおそる聞いた。
「もう行く時間なんだもん」とサロメは言った。
「どうして、ずっとここにいればいいじゃないか」
「残念ながらそれはできないの」と舌を出した。
「私はもうとっくに死んでいるから」

 その場に凍りついた僕にサロメは続けた。

「お墓の中で君がくどくど話す情けない話を聞いていてさ、一族みんなで君のことが心配だったんだよ。君は不器用で、女の子の気持ちもわからないし、このままじゃずっと孤独で、どんどん歳をとって、偏屈な老人になっちゃうじゃないかって。だから私が代表で出てきたってわけ」

「でももう時間だ。さよなら。もう大丈夫だよ。今の君はなんでも手に入れられる。誰の心だって捉えられる。だってこの私が鍛えたんだから。無敵だよ」

「僕はもう一人は嫌だ」
 僕はやっとのことで小さな声を出した。サロメは悲しそうに少しだけ微笑むと。

「大丈夫。私たちはいつもそばにいる。生きてる人間よりずっと、君を守ってあげられる。何しろ君は私たちの子孫。願いの結晶だからね」

そして「バイバイ」と言って、消えてしまった。

僕があの時、どれほど悲しかったか。
 
 次の日、僕はサロメも眠っているはずの先祖の墓に訪れた。

「サロメ、君が僕のところにやってきて、無茶苦茶したおかげで、僕はすっかり成長したよ。来週はあの憧れの人とデートだ。それもきっとうまくやってみせるよ。だからご先祖様たちが心配したような、孤独で偏屈な老人にはきっとならないよ。本当に良かったと思う。だけど、僕は、幽霊でも死んでいても、全身ピンクで態度が乱暴で、暴言を吐いても、サロメ、君にもう一度会いたいよ」

 泣き言めいた告白だったけれど、とても清々しい気持ちがした。

 心に本当に大切に思う人がいるというのはこれほど、心地よいものなのかと思った。たとえそれが、もう生きていない、もう会えない人だったとしても。この気持ちに変わりはない。そして同じように大切に思ってくれていること。僕はこれからこの気持ちを持って、どんな小さなことにも誠意を持って暮らせるような気がする。どんな人にもどんな場所にも長い歴史があり、たくさんの人の思いがあると。

 僕はどんな時も一人じゃない。

誰にだって窮地の時は
ピンクの傘を差しだす君がいる