水玉物語#099ハピネス
僕にはまだ 君に聞いていない ことがあった
少年は僕の手をとって宵闇の草原を走りました。 「こっち、こっちだよ。早く、早くいそがなくちゃ」白い風変わりな上着と、灰褐色の髪が風になびいていました。 「早く、早く」急かされて進んだ先には、月明かりに浮かびがった金色の大きな帆船が停まっていました。 僕が目を丸くしてその場に立ちすくんでいると、少年は頬を少し赤く染めて「ほら、早くしないと船に乗り遅れちゃうよ」と僕の背中を押しました。 「この船に乗るの?」 僕がつまずいて転びそうになりながら尋ねると、少年はニヤリと口角を上げて頷きました。僕は胸がひどくドキドキしました。僕の日々にこんなことが起きるなんて。 「君の分の特別な乗車札をもらったんだよ」 少年はポケットから文字の書かれた紙切れを出して、ひらひらと夜風にかざしました。 「僕なんかが乗っていいのかな」 僕が小さな声で頬を赤らめながら言うと、 「君は何にも知らないんだなぁ」と笑いました。 そして僕らは出航ぎりぎりのところで、太鼓を鳴らすその船に乗り込みました。
僕は息を切らしながら、その船から見る夜の景色を生涯忘れないと思いました。僕の暮らしていた街が一枚の光る地図になっていく様子に、僕の暮らしさえも墨で描いた小さな印になったように思えました。 それから僕は少年に連れられて入った船の中に驚きました。船内はとても広く、まるで一つの街でした。金色の川が流れ、朱塗りの橋がかかり、その川沿いに色とりどりの屋根のついた小さな建物が積み木のように重なって、不思議な姿をした人たちが楽しそうに行き交っていました。僕たちはその広い船内を何処へでも行くことができました。どの場所にも誰にも、その船の中には垣根のようなものがなく、開け放たれた窓から心地の良い風と、笑い声が聞こえました。そして外に出ればいつでも広い空が見えました。 「楽しいだろう?ここは」 彼は驚いている僕の帽子を引っ張りながら言いました。 「さあ、行こう」 「ねえ、ちょっと待って。君はいったい・・」 僕が言おうとすると、少年が僕の口に指を立てて、 「それはとりあえず、後回しにしよう。今はこの船の中を見て回ろう」 と言いました。僕たちはこの船に乗るほんの少し前に知り合ったばかりなのです。少年は突然僕の仕事からの帰り道に現れ「きみ、僕と友達になろうよ」と言って、僕の手を引きこの船に乗せたのです。でも今となって、それがなぜか聞いたからと言って、何か変わるわけでもないのも確かです。 船は空高く舞い上がり、星空に向かって舵を切っているのですから。 そして僕たちの月を追い越し、星の林を飛んでいく金色の船に乗った旅が始まりました。毎日、楽しいことばかりでした。僕たちはどれくらいの間、その船で過ごしたでしょう。僕がすっかり地上での暮らしこそが、夢だったのではないかと思い始めた頃、その夢は突然終わりを告げました。
僕は目を覚ますと、元の生活に戻っていました。僕にはそれが夢であったことが飲み込めず、しばらく何もできずに夢のことばかり考えて過ごしました。職場の人たちには少し体調が悪いとしばらく休みをとりました。 僕はあてもなく、空想に耽ったり、夜の空を眺めたりしていましたが、ある日、一冊の厚い手帳を買って、開け放した部屋の窓に向かって、あの夢の話を書き始めました。あの少年に出会ったところから、船の中で見聞きしたこと、起きたことを順を追って細かく書いていきました。けれど、僕の目が覚めるところまで書いてしまうと、本当は終わるはずの旅が続いていることに気づきました。僕が目を覚ましたそのあとの旅を、僕には書くことができたのです。 僕はその次の日から仕事に復帰し、以前と変わらぬ生活を取り戻し、空いている時間はその旅の続きを書きました。船は星から星へと渡り、船がその星々にしばらく舵をおろし宝を積み込む間、僕と少年は小さな冒険に出かけました。様々なことが起きて、僕たちはより強い絆で結ばれていきました。 まるで本当に旅をしているように思えることもあったけれど、手帳を閉じて、外に出て星の空を眺めると、空に浮かんだ月が僕を小馬鹿にしているように思える日もありました。 僕はそのまま孤独な大人になりました。友達をつくることもなく、深く恋をすることもなく、仕事で関わる人や隣人たちとわずかに言葉を交わすだけの日々でしたけれど、僕の手元にはいつも手帳があり、いつのまにか手帳を書くことが僕の人生そのものになっていました。 手帳に書かれた夢の物語の中では、あの船はまもなく終着の惑星にたどり着きます。船の中にはこれまでの星々で集めた宝物や乗り込んだ人々が山と積まれ、長い旅を経て、今まさに新しい星にたどり着こうとしています。 僕は手を止めて、空を見上げて、それは一体どんな星だろうと考えました。そもそも、あの船はどこから来て、何を求めてあの星へ行くのだろう。すると星の一つがチカチカと光ったように思えました。 僕はその瞬きになぜか、無性に悲しくなりました。 暗い宇宙の中でひとりぼっちになってしまったような不安と頼りない思いが僕を押し潰しそうになりました。
僕は何が欲しかったんだろうか。いつも一緒にいる気の合う友達だろうか。楽しい仲間との暮らしだろうか。空を飛ぶ船の旅だろうか。一人でないと思える僕だろうか。 僕はただあの船に乗った時、船が空を飛んだ時、見知らぬ少年が友達になろうと言って僕の手を取った時の、あの、胸がわくわくして夢がどこまでも広がっていく気持ちを。その気持ちの先にある世界を見たかった。それだけだった。でも僕はきっと、ありもしない夢を見て、現実から目を反らし何も幸せになる努力をせず、人の気持ちもわからず、生きてきただけなんだろう。 その夜、僕はポットにコーヒーをたくさん入れて、南の窓を開け、そこで長い間、見続けた旅の続きを書き終えました。
その船は滅びゆく遠くの星から長い時間をかけ、どんな危険をもくぐり抜け、不安にもじっと耐え、新しい希望の地に、新しい街を作るために旅をしました。そして一つの惑星へとたどり着きました。真新しい、夢と希望から生まれた星です。そこに運んできたすべてのものを下ろし街を作るのです。いつも楽しく、陽気なうたを歌いながら、誰かが孤独になることも、悲しくなることもない永遠の街を。星々をめぐり旅の間に見た夢こそ、新しい街を作る本当の宝物でした。
そして、筆を置き、手帳を閉じると、もう開くことはないと思い、ベッドに入って眠りました。
「ほら、あぶないよ」 声とともに手を引かれ、驚いて隣を見ると、少年が僕の腕を握って、 「落ちたらどうするんだ」と言いました。 「ここは?」僕は尋ねました。 「何言っているんだよ、もうじき終着点に着くところじゃないか?」 「着くってどこへ?」 少年が呆れ顔で指をさしました。 そこには小さな金色をした真珠のような、見ているだけで胸に温かい幸せが込み上げるような小さな惑星がありました。船の上ではみんなが歓声をあげて、太鼓をたたき、笛を吹き旅の無事を喜んでいました。 少年が僕にまっすぐ向かうと言いました。 「君のおかげだよ。君が僕たちを迷わずここまで連れて来てくれた。君がいなかったら僕たちはここへはたどり着けなかった」 「僕の?」 「そうだよ。君が僕たちの旅を守ってくれた。最後の希望を見つけ出してくれた。それは君にしかできなかったことだよ。ありがとう」 すると僕の手の中にあった手帳が、金色の鳩に姿を変え、空に飛び立ちました。僕はその鳩が船の周りを旋回している様子を見ながら、僕が一人で夢を見て書き続けたあの物語は、ちゃんと届いていた。そうか、ちゃんと一緒に旅をしていたんだと思い、目から涙がこぼれました。 僕は孤独で寂しくて夢を見た。でもそれはどこかの世界では、いま新しい物語へと続いていく。 「そうだ、ずっと聞きたいことがあったんだ」 「なんだい?」 「君の名前を教えてくれるかい?」