大きな木の子守唄

水玉物語#092 ファラウェル
その街には
時の川となる
大きな木がありました




 
 私はその木に会うために、長い旅をしてその街にたどり着きました。汽車の終着駅を降りると、もう辺りは暗く、大きな木は闇に紛れて姿を隠していました。私はなぜか少し心がざわめくので、宿の部屋に荷物を置くと、隣にある酒場で甘い蒸留酒を頼みました。男はその店にいた唯一の客でした。街の人はもう眠ってしまったのでしょうか。私たちは自然にポツリポツリと話をしました。男もまたその大きな木を研究するためにこの街に滞在していました。
『男の話』

 あの木の下には、遠い昔この街を作った一族の大きなお屋敷があったのです。その頃はあの木も普通の大きさの庭木だったけれど、最後の当主の死を境に、一族は衰退し、散り散りにこの街を出て行きました。残されたあの木だけがあんなに大きくなったと言います。

 木が大きくなった原因はわかっていませんが、そのきっかけとなったのは、その亡くなった当主が数年前に養子にした、血のつながりのない少年と少女の兄妹に、全ての遺産や一族の権限を譲ったことと言われています。
 というのは、その当主以外の一族の者たちはもともと、その二人のことをよく思っていなかったのです。だからもちろんその決定に納得いかなかった。

「なぜ、よく思ってなかったの?」
「はっきりとはわかりませんが、不思議な力があったとか、ないとか。少し変わった子供達だったようです」

 当主が亡くなって、遺言書が公開されると、大人たちは二人に対する嫌悪を顕にして、彼らに辛く当たりました。彼らが殺したと言うものさえ出てきました。二人は何も言わず、じっと大人たちの発する罵詈雑言に耐えていましたが、やがて深く傷つき、全てを捨てて、木に登ったままいなくなったそうです。

「木の上に登ったまま?」
「そうです。もちろん古い話なのでなんとも言えませんが」

 その日から、時計塔の時計は止まり、一族は滅び、残された者もこの街を去っり、それと引き換えるように木は一夜追うごとに大きくなり、屋敷を飲み込み、街を覆うほど大きくなった。この街に住むものはそれ以来、夢を見るようにひっそり暮らしていると言われています。
 私はその話を聞いて、なんだか胸がいっぱいになり、いますぐその木の下に行きたいと思いました。男は少し思案してから、案内しましょうと言いました。私たちは明け方の緩やかな坂を登り、道を何度か曲がり、やがて大きな木の下にたどり着きました。下から見上げると、それは広大な星空に見えました。

「彼らはどこへ行ったのかしら?木の上にどこかにつながる入り口があったりして」「現実的に考えれば、誰も見ていないうちに木を降りて、他の街へ行ったのでしょう」「もしかしたら、今も木の上にいるのかもしれないわ」
「まさか。もう数百年も前のことです」

 私は想像しました。木の上で、純粋なまま永遠を身にまとい、そっと寄り添っている二人を。彼らの目は深く深く傷ついて、悲しんでいる。どこかで責任を感じている。答えを探している。その涙が木を濡らしている。

 私は咄嗟に「ごめんなさい」と言いました。
「どうしました?」男が驚いて聞き返しました。
「わからない。私ももしかしたら、彼らのような純粋な何かを信じずに、追いやってきたかもしれないと思ったの」
 よく見ると、大きな木には長い長い梯子がかかっていました。木に半分同化した真鍮の梯子でした。私は引き寄せられるように靴を脱いで、その長い梯子を登りました。男も何も言うことなく、後に続きました。

 不思議なことにその梯子は、一段登るごとに私の思考や体の感覚が変わっていくのです。少しずつ敏感になって、単純になって、感じることが増えていきます。体の奥から好奇心や勇気が形を作って、ムズムズするようなワクワクする気持ちが溢れてくるようです。私たちは顔を見合わせ、もしかしたら、時を遡っているではないかと気がつきました。

 本当に彼らは今もここにいるのかもしれない。それともどこかにつながる入り口があるかもしれない。そう思うと、胸がドキドキして、梯子を握る手に力が入りました。

 しばらく登ると、私たちはすっかり少年と少女になっていました。私はちょうどよく伸びた枝を見つけて腰掛けると、目下の街を見下ろしました。いつのまにか隣に座っていた男が同じように街を眺めていました。
 私たちはまるでお話の中の二人のようでした。
「私たちがまさかその二人なのかしら?」
「そんなはずはないでしょう」
 
確かにそんなはずはないけれど、私の中にも彼らはいる。彼らがどうして木に登ったかわかる気がする。それは私だって彼らと同じ頃があったから。そしてそれを大人になった私が、いつのまにかどこかへ追いやってしまった。
そして時を止めてしまった。
だからきっとあの木に惹かれ、ここへ来たの。
「ねえ。見て」

 その時私は、大きな木々の枝の重なりの一つに、扉があることに気づきました。私たちは目をキラキラさせて顔を見合わしました。

 あの扉を開けると見えるものはなんでしょうか?

それは大きな木の
子守唄