屋根裏ネコ

水玉物語#083ファラウェル

その街の壁や天井や屋根には
屋根裏ネコたちが
住み着いていました
 その街の古い建物には屋根裏ネコが住み着いていました。もちろん屋根裏ネズミもいます。でも屋根裏犬はいないようです。聞いたことがありません。

 屋根裏ネコは主に建物の壁や天井に暮らしています。天井も壁も床も彼らにとっては一枚の白い紙の上。それはどんな気分でしょう?

 それはそうと、屋根裏ネコがどうして屋根裏ネコになるのかというと、彼らはその昔はもちろん普通のネコで、それもだいたいの場合、とても大切に飼われていたネコです。そのネコたちが死んでしまってもご主人様が心配だったり、何か心残りがあったりして、壁や天井に住み着くのです。そのうち、自分がただのネコだったことも忘れて、すっかり屋根裏ネコになってしまうのです。

 そして屋根裏ネズミと追いかけっこを繰り返し、人間の世界からこっそり持ち出した宝物、壊れたおもちゃとか干からびたヤモリだとかを隠したりして暮らしているのです。屋根裏ネズミはかわいそうですが、いわばおまけです。
 この子はミアと言って、その屋根裏ネコの一匹です。もう100歳くらいの屋根裏ネコです。今日は彼女のお話をしましょう。

 彼女の主人はクリスという名の優しい人でした。クリスがミアを路地裏から拾い上げたのは、彼がまだ若く、小説家を志し、この街に暮らし始めた頃です。さして裕福ではありませんが慎ましく暖かい暮らしでした。クリスはミアに港で小さな魚をわけてもらってきてくれました。そして夜になると明かりを灯し、小説の話をしてくれました。けれど、クリスの小説はなかなか認められることはなく、クリスは生活のために様々な仕事をしていました。

 そのうち、恋人ができました。名前をネコと同じミアといいました。クリスとミアは愛し合い、幸せな日々が続きました。けれど、クリスの小説を巡ってケンカが絶えなくなりました。ミアは売れない小説家などあきらめて、もっと堅実な仕事をしてほしい。というのでした。優しいクリスはミアの願いを叶えてやりたいと思ったけれど、広場の中央にある噴水に腰掛け、古い街と空と流れる雲を見ながら、小説を失ったら、僕は生きる意味さえ失うと、思いました。それは意地や欲望なんかじゃないんだよ、ただ僕が僕であるためにどうしても失えない希望なんだよ。そしてミアと別れることにしました。ミアが荷物をまとめて出て行くと、クリスとネコのミアは暗い部屋の中に残され、悲しい空気の中でクリスはよりいっそう小説にのめり込むようになりました。
 その頃、ネコは寿命を迎えました。クリスに拾われて以来、一度もお腹を空かして苦しむことも、寒い思いをすることも、不安の中で眠ることもなかったけれど、ネコはクリスになにもしてあげられなかったように思いました。

 だから、命が尽きても、その部屋に残って、クリスを見守っていたのです。

 もちろんクリスは知りません。ネコも死に、いよいよひとりさみしく、小説を書き続け、いつのまにか歳をとり、腰は曲がり、ペンを持つ指先もしわしわになりました。その頃にはもうクリスは小説を誰かに認めてもらおうなどという気持ちはどこかに失せて、ただ純粋に書き続けました。そしてそれはいつか、必ず、世の中の多くの人に読み継がれることを確信していました。

 クリスは最後の小説を書くとその部屋で安らかに亡くなりました。幾人かの友人や隣人に送られた静かな最後でした。屋根裏ネコになったミアはその全てを見ていました。壁や天井のどこかから。いつも見ていました。

 クリスもどこかでそれを感じていたような気がします。彼は寂しそうにしていることは一度もありませんでしたし、最後に「君がいてよかったよ」と言ったからです。ネコはやっとクリスに少しだけ恩返しができたように感じました。

 それから、また長い年月が経ちました。

 今ではすっかりただの屋根裏ネコとしてその建物、あるいは街のいたるところを住処として暮らしていたネコは、ずっと空き家になっていた、クリスの家を女の子が買ったことを知りました。

 女の子はその部屋を気に入って、壁紙やカーテンを新しくして暮らし始めました。屋根裏ネコはときどき、壁や天井に姿を見せてはその暮らしを眺めました。

 女の子は夢を見て、勉強して、仕事をして、恋をして、懸命に生きていました。でもときどきあまりにも何もかもうまくいかなくて、塞ぎ込みました。そんなとき、屋根裏ネコはそっと話を聞くように耳を立てて、そばにいました。
女の子はそれに気づいているかのように、ときどき、壁にひたいをつけて、心の内を話しました。そして、少し元気になって、窓を開けてその向こうに広がる景色を吸い込みました。

 女の子はいいました。

「これ、私の一番好きな本なの。元気のなくなったときはこれを読むと元気になれるの」

 その本はかつてクリスがこの部屋で最後に書いた小説でした。屋根裏ネコは何度か頷いて、するりと屋根の上に出ると、泣きました。夜が明けるまで泣きました。心配した屋根裏ネズミが今夜は逃げずにそばにじっとしていました。

思いは通じたのです。
もう大丈夫だと思いました。
長い時を生きました。
よかったと思いました。

屋根裏ネコは少しずつ薄くなり、やがて消えていきました。
私はあなたが好きでした。
私を温かく守ってくれたあなたが、本当に好きでした。

 この街にはそんな思いが無数に存在します。古い壁や屋根や石垣や色あせたカーテンにさえ。それは時を超えて、また誰かを守り、励まし支えていくのです。

たとえあなたがひとりぼっちで泣いていても
街はそれを知っている

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