月の下のサーカス

水玉物語#089ファラウェル
それは
青い月の夜に
やってくる
 ファラウェルの街のはずれに、今では誰も訪れることのない遊園地の跡地がありました。かろうじて残った絵の描かれた門が、かつてそこに遊園後があったことを示していますが、あとは草の生えた荒れ地に、ぐるぐると回転する乗り物の残骸やタイヤのない滑車、途切れた線路や鎖の切れたブランコなどが散らばっているだけです。

 そのさらに外れの一角にずいぶん色あせたサーカスのテントがありました。ところどころ穴が開き、もう使い物にはなりません。その昔一時ここに留まっていたサーカスの一座が、いつしかテントを残していなくなってしまったのです。

 そのテントの前に老人はいつも座っていました。いつも縞模様の服を着ているので、近くの学校の子供たちにはシマシマと呼ばれていました。かつてはサーカスの切符のもぎりをしていたそうです。シマシマはこの街の出身ですが、なぜかそのサーカスのもぎりに選ばれたことを何より誇りに思っていました。今はだれの切符ももぎりませんが、ただそこに一日中座っているのです。

 シマシマにとって、そのサーカスがいた頃がいつの時代より素晴らしい日々でした。

 それにシマシマはどこかで思っているのです、もしかしたらサーカスはちょっと留守にしただけで、また戻ってくるかもしれないと。

 もしくはシマシマにはそれ以外の希望がないのかもしれません。さびれゆく街も、変わりゆく街も、老いていく自分も悲しむには十分ですが、シマシマにはそれらはたいしたことではなく、ただ無性に悲しくなる日があります。あのサーカスがいなくなった時から、シマシマの時間はそこで止まっているのです。
 

「私、その昔ブランコ乗りだったのよ」
 彼女は当てもなく旅をして、その街にたどり着きました。
 そしてまた当てもなく歩き、シマシマのいるサーカス跡へとやってきました。

 シマシマは喜んで、小さな火を起こし、お茶を入れ、二人はしばらく話をしました。

「あんたはどうしてブランコを降りたんだい?」

「くだらないことよ。失恋したの。相手も同じブランコ乗りだったから、その手をつかめなくて下に落ちたのよ」

「それは悲しかったな」
「ええ、とても。あの日から何もかも止まってしまったわ。いまだに夢に見るの、ブランコに乗って飛ぶ瞬間の」
「さぞ、気持ちいいんだろうな」
「ええ、体が透明になるの。それに比べて地上は重いわ。どこまで歩いてもどこへも行けない」

「ねえ、このサーカスはなぜ、このテントをそのままにしてどこかに行ってしまったの?」
「さあ、わからんのだよ。ある朝が明けたら、誰もいなくなっていた」

「こんな話があるわ」
 女はバックの中から細い煙草を取り出すと火をつけました。

「いくつかの街できいたの。新月の夜にどこからともなく現れるサーカスの一座がいるの。一夜にして現れて、パレードと共に幕を開ける。そして長く滞在することもあるし、短いときもあるけれど、新月にまた一夜にして、ほかの街に行ってしまう。噂によるとそのサーカスは夢を運んでくると、同時に夢を奪ってしまうのよ」
「なぜ、そんなことをするんだい?」
シマシマは身を乗り出して女に聞きました。
「さあ、わからないわ。ただ彼らは夢を見せて、夢を見た心をうばっていくの」
「残された街はどうなる?」
女は少し考えて、細く長く煙を吐くと、
「そうね、私やあなたのようになるんじゃないかしら?かつて見た夢を忘れられずに彷徨い続けるの」

 二人は何も言わずに黙りこむと、その間を細く白い沈黙が流れました。

「そのサーカスが同じ街に二度来るという話はないのか?」

「さあ、どうかしら。聞いたことはないけど、もし物語があるとするなら・・、今度は世界中から集めた夢を届けに来るのよ」
女が鼻にしわを寄せてほほ笑むと、シマシマは目を細くして、
「それは素敵だ」
と、空を見上げました。

「もしかしたら、あながち作り話でもないかもしれないわ。だって個人個人、それぞれの家々、街ごとに違う夢を見るから争いだって起きるけど、その夢を一つにしてみんなで見れば、争いも起らない。夢は夢のまま何も壊さないもの」
 シマシマは久々に自分の胸の震えを感じました。

「わしはそれを信じてみることにするよ」
「あら、哀れなブランコ乗りのたわごとよ」
「それでもブランコ乗りはみんなの憧れ、サーカスの花形じゃよ」
「それはどうもありがとう」

 女は今なら、飛べると思いました。誰に受け止めてもらうためではなく、ただ光の中へ。

 サーカスはいつか世界中の夢を集めてここに戻ってくる。私たちはその夢の続きを心待ちにしている。あの日からずっと。




さあ、月の下に
見たこともない幕が開く