水玉物語#075ファラウェル
その時 私は私を 追いかけた
私は淡い桃色の明け方、ほんの少しの荷物をトランクに入れて、窓から逃げ出した。夜が明けるまではまだ少しある。 今ならみんな深い眠りの中。 とはいえ、私は囚われているわけではないの。鍵をかけられてもいないし、凶暴な犬が尖った耳を立てて見張っているわけではない。ただ、私の中に流れる時間がはやすぎて、追いつけなくなって、もうじき私はなにか私にもわからないものになってしまうのでないかと、怖くなって、昨夜の細い月に祈った。 しばらく走って、もう屋敷の尖った屋根が見えないところまで来ると、橋のところで足を止め、ほどけたスニーカーの紐を結び、息を切らして、深い川の流れを聞いた。優しい穏やかな音色だった。 私は小さな茂みに隠れて、トランクの中から持ってきたワンピースに着替え、ボタンを閉め首のリボンを結んだ。月明かりで髪に櫛を通して結び直して、茂みに生っていた赤い実を一粒口に入れた。 夜が少しずつ明けてきた。どうか少しだけ私に時間をください。私は涙を拭って、前を向いて手を伸ばした。何かを見つけたいの。何かを手に入れたいの。秘密の鍵みたいなものが必要です。 これは私にとって、きっととても大切なこと。そう思うと風に吹かれ少し身震いしたの。
私は夜と同じ色のトレンチコートの紐をきつく結び、トランクを持って人気のない駅の灰色のホームに立っていた。ここへ一番に入ってきた汽車に乗ろうと思っているの。そして終着駅まで行く。
その終着駅には怪しい靄が立ち込めていて、降りる人は私しかいない。でも私はそこが私の行く先だとわかっている。まっすぐ緩やかな坂道を下り、その下に広がる街へと降りていくの。その街は少し変わった様子。針を止めたままの時計塔が街の時を止めている。まるで街が丸ごと夢を見ているみたい。 私はその街である人のもとで働くことになる。その人は魔法を使えると言うの。背が高くて丁寧な言葉を話す、とても変わった人。私は彼の家の屋根裏に住み込んで、朝起きると、魔法書を開いておかしな材料を入れたスープを煮込んだり、庭の草を乾燥させて粉にしたり、満月の夜に呪文を唱えたりする。 彼は私に言う、僕たちにはなんでもできる力がある。この呪文や、薬草はまやかしだけど、これがなくちゃ魔法は使えない。魔法は秘密だからね。本当に大切なのはそうしたいと思って、誠実に大切に何かをすることなんだ。私はその言葉を静かに心に刻みながら、彼の言う通りにする。 するとキラキラキラキラと私の指先から光の粒がこぼれる。言葉からもキラキラこぼれる。驚いてまばたきする目からもこぼれる。魔法使いは私に片目をつぶって、ほらね。と言う。魔法とはこういうものだよ。 なんでもできる力は君の中にある。この世界にはそれを受け入れる力もある。大切なのはそれを使う勇気と覚悟だよ。 私はまっすぐに頷いた。キラキラが優しく私を包んで、私は何にでもなれると思った。あの日、勇気を出して窓から抜け出して、ここへ来て良かったと思った。私の探していたものはきっとこれなの。これなのよと、泣いた。
気がつくといつのまにか日は高くのぼって、金色の朝の光が私と私の足元を照らしていた。汽車はとうとう来なかった。この駅はいつからか使われていないみたい。 「汽車に乗りそびれちゃった」 私は小さく笑って、家に戻る道を歩いた。 なんてきれいな道。なんて、きれいな景色。 私は橋のところで靴紐の解けた靴を脱いで、裸足のまま空を見上げると。 雲間に金色のキラキラした明日が見えました。 お月様ありがとう。私は私に追けたような気がする。