蛍の祈り

水玉物語#063フォーエバーランド
悲しみが
そっと私を
見つけ出した
 
 蛍は今ではあまり長く眠らず、短い眠りを繰り返しました。だからベッドより、窓辺に積んだクッションにもたれて眠ることが多くなりました。蛍は昔から眠るといつも悪い夢を見るのです。

 小さな小さな悲しい夢を。

 誰かを小さく裏切ったり、誰かに小さく傷つけられたり、ずっと借りたまま返せないものを思い出したり、必要なものがあと少しで手に入らなかったり、言いたいことがあるのに声が出なかったり。まるで小さなひっかき傷のような夢。

 いつも目を覚ますと思うのです。現実はなんて夢のようなのかしらって。けれどもそれでもその悪夢がなぜか、愛しいものに思えるのです。

「祈」

 蛍はある朝の白い光の中で、突然、遠い昔、大好きだった懐かしい友達のことを思い出しました。どうして今日まで思い出さなかったのでしょうか。あんなに好きだった祈(いのり)のことを。




青い屋根の白い建物
長いテーブルに並んだお皿やカトラリー
太い柱の上の二羽の天使
天井の高い八角形の図書室
地下室に降りる重たい鉄の扉
埃まみれの屋根裏部屋
こっそり盗み出して食べる甘いお菓子
 その頃、蛍は都会の戦火をのがれて、郊外のある屋敷にお世話になりました。蛍は親元を離れて見知らぬ人と暮らす環境に馴染めず、戸惑っていました。けれど初めて会った時から、どこか懐かしい感じのするルームメイトの祈がいつもそばにいてくれました。その頃の私にとって祈は、家族であり、友達であり、女の子だけど男の子みたいで、清らかな世界から舞い降りた天使でした。

 それなのに、どうして今まで忘れていたのかしら。

 それから蛍は眠るたび、少しずつ昔のことを思い出すようになりました。でも記憶が飛び飛びで思い出せないこともたくさんありました。

 蛍は古いアルバムをめくって、ところどころ途切れた記憶をつなぎました。古い写真には確かにこの場所ですごした日々が映っていました。けれど、そこに祈の姿はなく、蛍が不安な顔をして映っているだけでした。

 蛍はその頃を知る知人や家のものに祈のことを尋ねたけれど、誰も彼女を覚えていません。記憶がこぼれ落ちているようです。それと入れ替わるように蛍の記憶は鮮明になっていきました。

 蛍はその懐かしい場所へ、旅をすることにしました。

 そこは相変わらず美しい自然の中にありました。蛍は駅から送ってくれた親切な車を降りると、曲がりくねった道をゆっくり登り、蔦のからまる屋敷の門をくぐりました。当時のマダムはとうに亡くなり、マダムのお孫さんの明日香さんが屋敷を守っていました。
「こんにちは。私は昔、この場所でお世話になった蛍です」
「まあ、良くお越しくださいました」
と、明日香さんは優しく蛍を抱きしめて、中に入れてくれました。

「今日はお尋ねしたいことがあってきました」
そう言うと、明日香さんは一瞬悲しそうな顔をして、
「そうですか、ではお茶でも入れましょう」と、温かい紅茶やクリームの乗ったビスケットを用意してくれました。

 蛍はそのお茶の時間を昔のように感じました。

「ねえ、明日香さんは祈を覚えてますか?どうしてかしら。みんな祈のことを覚えてないというのです。私も、なぜだか最近まで忘れてしまっていたの。あんなに大好きだった祈を。ねえ、明日香さん。祈はどこへ行ってしまったのでしょうか?今はどこにいるのかご存知ですか?私、あの頃の記憶がとても曖昧で、とても思い出せないのです」
 聞きたいことが止まらなくなった蛍に、明日香さんは
「少し落ち着いて。まずはお茶をどうぞ」と、優しく微笑みました。

 蛍はお茶を一口飲むと、落ち着きを取り戻しました。あの頃もよく、マダムは祈と私をここに招待してお茶をふるまってくれたのです。
 
「祈にはじめて会ったのは、ここへはじめて来た日の夜、両親と離れ、寂しくて怖くて眠れない私を、同室だった祈が慰めて、眠るまで遠い星のお話をしてくれました」
「私たちはすぐに仲良くなって、二人で抜け出して裏山を冒険したり、川でボートに乗ったり、夜の図書館に忍び込んだり、屋根裏部屋に隠れて星をみたりしました」
「祈はなんでもできて、なんでも知っていて、いつも私のことを笑わせてくれました。いつでも私を悲しくさせるすべてのものから守ってくれたのです。彼女は勇者であり、ナイトであり、私は祈さえいれば他には何もいらないと思っていました」

 蛍はお茶を飲むのも忘れて話し続けました。

「それなのに、あなたは彼女を忘れてしまっていたのですね」
明日香さんは静かに言いました。

「ええ、それがわからないのです。私の記憶では、気がついたら戦争は終わっていて、両親の帰ってきた家で目を覚まして、両親が笑っていて、温かい朝食が用意されていました。でもその前のことがよく思い出せないんです。祈とどうやってお別れしたのか。祈は今どこにいるのかご存じですか?」

 明日香さんは静かにティーカップをテーブルに置くと、
「祈は戻るべきところに戻ったのですよ」と答えました。
「いったいどこへ?」
「あなたの中です」

 蛍はその言葉を聞いた時、その意味を真に理解したわけではないのに、後から後から涙が出ました。

 明日香さんは優しい口調で続けました。
「祈はあなたが作り出した、幻なのです。あなたの不安を癒すために、あなたがつくった、あなただけの友達。あなただけの天使です」

「それは、祈がこの世界に存在しないということですか?」
蛍は静かに尋ねました。
「ええ、残念ながら、あなたの心にしかいません」

 蛍は明日香さんにお礼を言って、屋敷を後にしました。彼女はいつか蛍がここへやってきた時にと、おばあさまから祈に関する手紙を預かっていたそうです。

 
 蛍はひとり、裏の丘に登り、柔らかな草の上に腰を下ろし、手紙に目を通すと空を見上げました。暮れていく空に、小さな一番星が覗きました。いつかも二人で見た景色です。蛍は静かに祈のことを思いました。

「あなたは私が作り出した空想の産物で、この世界にはいない」

「そんなことは初めからわかっていた気がする。でもあなたは確かにいた。幻なんかじゃない。それを幻だというなら、私も世界中のすべてのものもきっと幻」

 蛍は目を閉じて思い出しました。祈と会ったその前夜の重たさを。戦いを続ける世界は悲しく、小さな心は頼りなく、どこまで行っても抜け出せない絶望に、どうか助けてください、と祈ったこと。

「私、今ならもっと大きなことを祈れるわ。世界のすべての人にあなたのような存在がやってきますように。誰もが一人で悲しみに押しつぶされないように」

 静かに風の音が聞こえてきました。

「あれからいろいろなことがあって、すっかり歳をとって、とても強くなったのよ。今度は私があなたを守ってあげられるわ」

「ごめんね、あなたを一人にして」

 蛍にはわかりました、もうじき祈はここへ来る。何もなかったかのように、隣に座る。そしてこういうの「君は相変わらず、泣き虫だな」
 蛍は笑って、その懐かしい声を聞くでしょう。雲の向こうに光が見えるように。

悲しみよ
今度は私が
見つけだす