水玉物語#042 サーカスシティ
真夜中に シルクハットは やってくる
真夜中にシルクハットをかぶってやってくる。 その人にパンケーキを振る舞うために、 私はその日、昼間から丁寧にパンケーキの準備をした。 卵とお砂糖とオイルを混ぜて、ミルクを加えて、 バニラエッセンスを一滴。そこに丁寧に振るった粉とベーキングパウダーを加え、ダマにならないようによく混ぜる、塩も少々。 後は半日、冷蔵庫で寝かしておく。 私はその頃、少し疲れていた。 だからその小さなビルの上に突き出た部屋にこもって休養していた。 その部屋は高いビルの屋上にあって、人の世界とはなれているので、 私はよくとんでもない格好で寝転んで夜空を見上げた。
見上げた宇宙は広い。 宇宙はどこまでも広い。だとしても、私たちはこの地上から逃れられない。 見上げて、小さな点になった星を結ぶだけ。 宇宙の広さに比べたらどんな問題もとても小さく思えるだろうなんていうけれど、どうして宇宙が広いと私の問題が小さくなるのだろう。 困っているのはこの小さな消えない胸の痛みなの。 それとも、宇宙は無重力だから、痛みもなくなるのかな。 こんなこと考えるのは、この部屋が地上からずいぶん離れ、宇宙に近いからかもしれない。
私は目の中にいっぱいの星を埋めながら、小さく歌を口ずさむ。こうしていると声が出るけれど、大きな声で歌おうとすると途端に声はどこかへ行ってしまう。 「思っているより、君は心身ともに疲れている」 そうかもしれない。 人前に出ることも、人に期待されることも、常に進み続けることも、疲れる。 ただ好きなことをしていただけなのに、いつの間にかいろんなことが大きくなってしまった。
はじめて、夜空にシルクハットを見かけたのは、まだここへ来て間もない眠れない夜のこと。それをかぶった人影は見えなかったけど、シルクハットは星の海のいたるところに現れた。月の先端や。星と星の間。惑星のリング。光を吸いこむ暗闇に。私は星空に黒く滑らかなベルベットのポイントを作るシルクハットを、その日から毎夜探すようになった。 パジャマのまま毛布にくるまって寝転ぶと、星が見たこともないくらい光って見える。私はあのシルクハットをかぶった人はどんな人だろうと想像した。 昔からよく星を眺めていたけれど、最近は忙しくて星を眺めることも少なかった。無数の星を眺めていると、心のどこかが共鳴する時がある。気のせいかもしれないけど。それは私を癒してくれる。まだ私の知らない私がいるようで。
ある夜、その黒いシルクハットが私の小さな屋上に、置き忘れてられているのを見つけた。手に取ってみると想像した通り、滑らかだった。 これをかぶったあ人と向き合って話をしたら、どんな感じかしら? 私は星の中にその姿を想像した。 きっと紳士的で、いつも微笑みを絶やさず、 この宇宙のように広い心を持っていて、時に厳しく、常に優しく。 世界の美しいものを、正しき世界を思い出させてくれる。 まるでどこかの王子様。
だから、満月が近づくと、私はその人に手紙を書いた。 「あなたはもしかしたら、ご自分のシルクハットを置き忘れていることにお気づきでないのでしょうか? よろしければ、パンケーキを焼いて、真夜中のお茶にご招待いたします」 すると、手紙の返事が来た。 「ありがとうございます。次の満月にお伺いいたします。 追伸、満月のような丸いパンケーキを焼いてもらえると光栄です」 どうやらシルクハットの主もパンケーキが大好きなようです。 私はすっかり楽しくなって、手紙を空にかざしてくるくると回った。
この月が丸くなるとその人はやってくる。どこから? どこかの星から。宇宙のどこかから。 そして私と向き合って、パンケーキを食べながら話をする。 パンケーキはふわふわで今までで一番よく焼けている。 話の内容は彼が宇宙のどこかで起こったこと。 でも聞いていると、この地球の話とそんなに変わらない。 私は特に何も話さない。でも一度だけ泣いてしまう。 するとシルクハットのその人は、そっと肩に手を置いて、「大丈夫だよ」と言う。その大丈夫は今まで聞いたどんな大丈夫より、宇宙的で、永遠を感じさせる。 なんだか、あともう少しでこの今の閉塞的な状況をぶち破れそうな気がする。 明け方になるとシルクハットをかぶってその人は帰っていく。 その頃には私もお腹いっぱいで、バターとはメープルシロップの魔法で、 とても眠くなる。 歯を磨かなくちゃと思う。 歯を磨きながら、目を半分閉じたまま、パジャマに着替える。そういえば、彼のシャツと同じ色の縦縞のパジャマ。
ベッドに潜り込み、夢を見る。 ステージの上で私は一人立っている、人々が好奇心の目で見ている。 何か話すのを待っている。何か歌うのを待っている。 くるくると回るのを待っている。踊るのを待っている。 悪意も感じる、善意も感じる。みんな何かを欲しがっている。 欲しがる気持ちを愛と呼んでいる。欲しがる気持ちを憧れと呼んでいる。 私は少しずつ押しつぶされそうな気持ちになる。 小さく無力な存在になって消えてしまいたいと思う。 そんな時、見上げると夜の空にシルクハットの形をした星座が見える。 広い銀河を漂っているように。途端に私の心から何かが生まれる。 それは強い光。私の弱い心を一瞬で消しさる。 「すべてを壊して、粉々にしたい」 そんな感情が、同時に 「すべてのものを愛しく抱きしめたい」 なんだろう、これ。なんだろう。
目を覚ますと、私は窓を開ける。 爽やかな風と光が入り込んでくる。 私は伸びをする。 宇宙は広い。確かにそうだ。 もう私はなんでもできる。そう思った。