コネコ

水玉物語#055ハピネス

君の上で丸くなる
この目には
涙など出ない
 
 目がさめると、黄緑色の景色の中にいた。ぼんやりとしたパステルカラーの視界の中に、子猫になったわたしがいた。森の木々、草の色、その上に浮かぶ丸い綿毛や羽虫たち、空の色、何もかも柔らかく温かく尖りのない世界が、横たわるわたしの下に広がっている。

わたしが知っていた景色とは何かが違う。でも何かわからない。わからなくてもいいと思う。それよりもわたしは伸びをした。

なんて気持ちがいいのだろう。体が柔らかくて、軽い。わたしはあくびをしながら黄緑色の絨毯の上に体を預けた。

「至高の快楽とは、このこと?」

なんだろう。浮かんだ言葉は消えていく。

 その昔私はこの世界のものをすべて手に入れたかった。何を手にしても欲望が次から次に湧いてきて、とめどなかった。そしてついに最果ての街と呼ばれるこの街にたどり着き、最上の暮らしと愛を手に入れた。けれど、ある時砂漠のどこかにある幻の都の話を聞き、抗えない衝動に駆られ、恋人が止めるのを振り払い、どこにあるかもわからない街を目指した。

 月明かりの下、一面の砂漠を二頭のラクダを連れて歩き続け、もう最果ての街も見えなくなった頃、私の中から何かがこぼれ落ちるように消えていった。
それは欲望や渇望や怒りや衝動。これまでの私を動かしてきたもの。すると空っぽになっていく私の心に影が忍び込んだ。これまで感じたことのない、後悔や不安をつれて。
 
 甘いミルクの匂いがして、目を開けると、わたしの飼い主らしき男の人が、近づいてきて、耳の辺りを指で撫で、「さあ、ミルクをお飲み」と、白いお皿に入ったミルクを目の前に置いてくれる。

わたしは少しだけ臆病な気持ちを持ちつつも、まるで無防備にそれを舐める。

甘くて優しくて、子猫の小さな体に隅々まで行き渡り、とたんに気分が良くなる。少しだけ強くなったように思う。すぐにでも庭の高い木にでものぼれそうだと思う、もっともっと高く、屋根の上にだって軽々とのぼれると思う。

だけど今はもう少し眠ろう、もう少し強くなるまでじっと待とう。わたしはまだ子供だから。わたしは彼のそばに丸くなって、また夢の中に戻った。

「これが至上の快楽?」

 突然、おそわれた砂嵐の中で私は恐怖に駆られ、私のこれまでしてきたことすべてがひどく虚しい愚行だったと思い始めた。だから私はこんなところまで来てしまった。たくさんの人を裏切ったから一人ぼっちになってしまった。きっと私はこのまま苦しく悲しく、砂の中で惨めに死んでいく。後悔しても何もない砂漠が私のたどり着いた場所なのだ。思えば初めから私には何もなかったのだ。だからすべてを欲しがり続けたの。

 子猫はときどき真昼の散歩に出かけた。壁に飛び乗り、木の枝を歩き、草原まで出かけた。そこで時々他の子猫にあった。子猫たちはそれぞれ誰かに飼われていた。そして大切にされ、守られて幸せに暮らしていた。

子猫たちは口ぐちにご主人様の膝の上で丸くなる幸せを語り、甘いミルクの美味しさについて語り、このままずっとこの幸せが続けばいいと話した。

あとは小さなバッタを追いかけたり、風に吹かれて落ちた木の実を転がしたりして遊んだ。そして時間が来ると、ご主人様の待つ暖かい家に帰った。

「今日は楽しかったかい?」と抱きあげられた。それだけで、すべてが満たされた。

「これが至上の快楽?」
 砂嵐で持っていたものも自信もすべてを失った私は、それでも目を凝らし遠くに小さな光を見つけて、その方向にすがるように進んだ。今はどんな小さなものでもいい、それを無性に愛したいと思った。その気持ちをこの胸いっぱいにして、この震えを止めたいと。その光に手を伸ばし、あと少しで届くというとき、突然砂嵐がとぎれ、目の前にきらびやかな装飾のなされた巨大な門が現れた。

私は砂の上に腹ばいになったまま、その門を見上げていると、僅かに門が開き、するりとウサギの耳と仮面をつけた怪しげな男が現れた。
「ようこそ。快楽の都へ」と私に手を伸ばした。私は何かを考えることもできず、手袋つけたその手を取った。
 ご主人様は時々咳をする。時々苦しそうにする。

でもわたしは子猫なので心配もしない。わたしが欲しいのは優しい手であって、お腹が空いた時のミルクであって、暖かい寝床であって。それさえあればいいの。

彼を大好きだけど、それは彼が子猫の欲しいものをくれるから。温かいから。恐ろしいものから守ってくるから。その優しさは一方的で、わたしはただそれを受け入れる。それだけで成り立っている関係。

もしわたしはご主人様が誰かに代わっても、その手とミルクと寝床が同じであれば、同じようにうっとりと眠るだろう。重たい気持ちはどこにもなく、すべて優しさを紡いだ綿の上に暮らしている。

「これが至高の快楽だろうか?」
 差し出されたその手を取って、門の中に入った。強く甘い匂いがした。中には外から見てはわからない、きらびやかな装飾が施され風変わりな格好をした人々が行き交っていた。その様子はまともではなく、おそらくここは入ってはいけない場所なのだろうと思った。けれど私には立ち止まる力は残されていなかったし、その手が希望に思えた。

「さあ、こっちこっち」

うさぎの耳の案内人は私を連れ、階段を上がり、狭い通路を通り抜け、道端に座り込む人々を過ぎ、長い階段を地下に降りた先の一軒の店先にたどり着いた。看板には薬屋と書かれていた。

「この先には君のずっと探していたものが待っている。君は幸運だ。さあ、自分の手で扉を開けてごらん」

 私はドアノブに手をかけ回す。もう戻る場所もない。ついにこんなところまで来てしまった。でも仕方なかった、きっと私はどこにも止まれず、進むしかなかった。ここへ来る運命だったのだ。もはや悲しみより空虚さより無色透明な闇となった。
 ある日、ご主人様が朝になっても起きなかった。わたしはそのままベッドの中で丸くなっていた。やがて、お腹がすくと外に出て、彼の頭を手で押してミルクをねだった。いつもなら、「やあ、寝坊した。ごめんな、今ミルクを温めるから」と言ってくれるのに、今日は何も言わない。

そのうち、彼の恋人が家にやってきて、その様子を見て泣き崩れた。
街の人がたくさんやってきて、同様に暗い顔をして、何かを深刻に話した。

わたしは小さく鳴いてミルクをねだった。誰にも相手にされず、ご主人様も目を覚まさない。

だからわたしは窓から外に出た。どこかでミルクをもらおうと思った。

子猫の心には悲しみはなく、あるのは生きる欲求だけ。

「これが至高の快楽だろうか?」
 朱塗りのカウンターの中で砂色のローヴを深く被った薬屋は、品定めするように私を眺めると、コソコソと隣にいたチャイナドレスの女に何かをつぶやいた。女は奥に入ると小さな小瓶を手にして戻ってきた。

「これはこの世界でもっとも上質の快楽といわれる薬です。すべてを失いここへやってきたお嬢さん。あなたにはこれを飲む資格がある、さあさ、これを手にとって」

薬屋とうさぎ耳の男は顔を見合わせて言った。

どう考えてもすべてが嘘くさく、こんなもの受け取ってはいけない、こんなもの飲んではいけないとわかっている。でももうここにある流れには逆らえない。私はもう私ですらない。少し前まで強気で強欲でこわいものもなかった私は幻影だろうか。それとも、この私が幻影だろうか。疲れている。本当に疲れている。今はただ休みたい。深く眠って、忘れたい。

そう思いながら私はその薬のビンを受け取り、蓋を開けて口にした。私の記憶はゆっくりと途切れた。

至上の快楽とは?
 子猫の私はいつもように、広場まで歩いた。お腹は空いたけど、太陽は明るく照らしているし、風は優しくふいているし。いつも通りの真昼の散歩。

草原に着くと、草の上に横になり、目を閉じた。
少しお昼寝するのもいいかもしれない。

目の前の小さな花が揺れて鼻先をくすぐった。

しばらくすると、突如、空に雨雲が立ち込め、大粒の雨が降った。私は慌てて木の下に避難した。そこでじっとしていた。なんどか細い声で泣いた。
もう誰も私を迎えに来ない。けれどどこへでも行けるし、木にだって登れる。体は柔らかいし、心は軽い。

生きていくことは簡単。ただ生きるために目の前のことを選択すればいい。良いものはいい、悪いものはよくない。
そうしていれば、時は過ぎていく。どこまで行くのか、それはわからない。わからなくていい。子猫のわたしは最初から自分が取るに足らない小さなものだとわかっていたから。

「これこそ至上の快楽?」
子猫のわたしはなんどもよぎるその言葉に首を傾けた。

「そんなはずない」
子猫の目から涙が落ちた。そして動けなくなって立ち止まった。

わたしはご主人との暮らしが好きだった。死んでしまって悲しい。とても悲しい。できるなら取り戻したい。できるならなんでもしたい。でも私は小さな猫だから何もできない。それが悔しい。できるなら、この命を捧げてもいいから、もう一度、あの温もりを手にしたい。

子猫は小さく丸まりそのまま動かず、雨はより強くなった。
 私は目を覚ますと、天蓋のついた柔らかいベッドの上にいた。窓からは砂漠の景色と欠けていない丸い月が見えた。
「今、こわい夢を見たの」
私を優しく起こした恋人に向かって言った。
「とても怖い夢だった。自分が自分でなくなって。取り返しがつかないことになるの。戻れないところまで行ってしまう。ねえ、ここは本当に本当の世界?」
その人はほほえんだ。
「君が望むなら」
 
 さて、この世界のどこかで、私は目を覚ました。そこは何もない真っ白な世界だった。ローブを纏った薬屋とうさぎの耳をつけた男がどこからともなくやってきた。薬屋がローブを外すと、彼は最果ての街の恋人だった。うさぎ耳の男が仮面を外すと子猫の主人だった。彼らは恭しく私に一礼して言った。

「さあ、準備は整った。強欲も無欲もたどり着く先は同じ、何を手にしてもしなくても同じ。それなら君は何を望む?さあ、君の至上の快楽とは何?」

 真っ白な世界に身を起こした私の気持ちが如何なるものかというと、
この上なく、心地よかったのだ。

それは、
君の手で真っ白な中から
はじめること