水玉物語#069ハピネス
なぜ君は 突然やってきて 突然行ってしまうの
その村は最果ての村と呼ばれていました。本当は違う名前がありますが、世界の果てを求めて旅をしてきたものたちの行き止まり、荒れ果てた大地のはじまりにあるからです。 旅人たちは大きな街から小さな町へと歩き続け、この最後の村に辿り着くと、その向こうに広がる、草木も生えず乾いた土がただ延々続くその地を見て、もうここで行き止まりだと、この村で一時を過ごし、また戻って行くのです。 ルーの宿はその最果ての村の、そのまた端っこにありました。お父さんとお母さんが亡くなってしまったので、幼い彼女は一人でその宿を切り盛りしなくてはなりませんでした。でもルーは一人ではありません。うさぎがやってきたからです。
うさぎは両親がいなくなってぼんやりしていたルーのもとにふらりと現れ、ふわふわした毛の生えた足に、青いブーツを履いたままキッチンに入り込み、裏庭の野菜を取ってきて、火を起こしスープを煮込んだのです。しばらく食事をしていなかったルーは少しむせながら、スープをゆっくり飲みました。 「こんなに美味しいスープを飲んだのははじめてよ」 ルーは頰を赤らめ言ったけれど、うさぎは何も答えず、今度は湯を沸かし、お風呂に入りました。そしてルーにも湯を使うように促すと、二階に上がり、ベッドを整え、寝てしまいました。ルーは温かいお湯の中で、両親が亡くなって初めて泣きました。その夜はひさしぶりによく眠りました。
そして次の日、うさぎは朝早く起きると、エプロンをして宿の手伝いをはじめました。何も言わず。掃除をして、ベッドを整えて、買い出しに行き、仕込みをしました。花まで飾りました。ルーは驚きながら、自然にそれに習って手を動かし、いつの間にか宿にはまたお客さんがたくさん泊まるようになりました。 夜になって、客人が寝静まって、今日の仕事が終わると、ルーとうさぎは裏庭で育てた花のお茶を飲みながら、テーブルに向かい合ってぽつりぽつりと話をします。と言っても、うさぎは無口なので、ほとんどルーが話しているだけです。 「ねえ、私、いつも思うの」 だいたい始まりはこのフレーズです。うさぎは黙ったまま耳を立て、村の新聞に目を落としています。 「旅人たちはどうして荒野の先に行かないのかしら?何もないって戻っていくけど、あるじゃない何もない荒野が」 うさぎは何も言わず、新聞をめくり、お茶の入ったカップを口に運びます。 「何もないって言うのは、もっと大地もなくて、大気もなくて、空っぽなことを言うんじゃないかしら、例えばこのすぐ向こうが断崖絶壁で、その先には真っ暗闇しかないの」 うさぎは新聞から目をあげて少し瞬きをしました。電気が少しチカチカするようです。明日電球を替えなくては。 「それで、ふと思ったのだけど、父さんと母さんはどうしてこんなところに宿を始めたのかしら?二人もやっぱり世界の果ての旅人同士だったのかしら。彼らは戻りたくなかったのかな。ねえ、旅人たちが戻っていくところはいったいどんなところなのかしら。ここみたいな町がたくさんあるのかしら」 ルーのいつも思うことは沸いては消える泡のように続きます。 うさぎは目をあげて月を見ました。
窓から見える月がうさぎに言ったような気がしました。
「言っておあげなさい。君が知っているよりずっとずっと世界は広くて、この村など一瞬で飲み込んでしまうような大きな街がたくさんたくさんあるよ。けれどこの場所と同じところは二つとない。君のお父さんとお母さんがここに宿を作ったのは、勇敢か臆病か、空想家か強情か。そんなところだよ。でも愛し合っていたんだろうね、とても。少なくとも永遠を求めるくらいに」
うさぎはむむ、と喉を鳴らし、何も言わず寝室へ上がっていきました。ルーはカップの残りを飲み干しながらその後ろ姿を眺めました、丸い尻尾が左右にリズミカルに揺れていました。
次の朝はいつも通り、うさぎは火を起こし、ルーは旅人のためにパンとスープを用意しました。二人はよく働きました。次から次に仕事を片付けていく、何も考えず、必要なことを迷いなく躊躇なくこなす。そうしていくとそこには何か大きな渦のような秩序が生まれて、大きな水槽の中で泳いでいるような気持ちになったのです。うさぎ、私、旅人。もっと広がればこの村全体。それはとても気持ちがいいこと。まるで寂しくないの。 「私、今日、わかったわ。人は寂しいから世界の果てを目指すのよ」 ルーは夕食の準備をするうさぎの背中に、そう断言してみました。うさぎはいつものように何も言わず、コーンスープをかき混ぜました。ルーはポツリと、うさぎの背中に額をくっつけて、 「でもね、きっと本当に勇敢なのは、ここから始まる世界の果てに歩き出していくことかもしれない」と言いました。
もしかしたら、あの日の一言がうさぎの心を動かしたのかもしれません。それともはじめからそのつもりでこの村へ来たところ、幼いルーを見かねて、これまで手伝ってくれていたのかもしれません。もしくは彼はルーの希望や願望を具現するために存在する幻の類なのでしょうか。
ある冬の近づいた夜明け前、まだ夜も明けない早い時間だというのに、うさぎは目を覚まし、ベッドを整え、明日の朝のスープの味を確認すると、エプロン外し椅子にかけ、何も言わず、扉を開けて出て行きました。木の葉を巻き上げる小さな風が開けた扉から店の中に入り込み、うさぎはいなくなりました。 ルーは寝室の窓からそれを見ていました。 うさぎがそのふわふわの足で、この世界とその先の境界線をまたぐところを。胸が高鳴って、ドキドキしました。長い間夢見ていた何かが、目の前に現れようとしているような高揚感と厳粛な静けさが相まった不思議な感覚が夜に溶けていきます。うさぎ、あなたは本当にその先へ行くのね。 かすかに光りながら暗闇をゆっくり進むうさぎは、自前の体に付いているポケットから、何かの種をまいています。その種が点滅して川のような流れに見えます。ルーはオーバーを羽織ると寝巻きのまま、外に駆け出していきました。
少し寒い大気が頬を撫でて、目に涙が溜まりました。空には無数の星。パパとママがいなくなって、うさぎがやってきて、もう何年も経ちました。今となれば、そのすべての意味はこの境を越えるためにあったような、そんな気さえします。 ルーはうさぎの後に続き足を踏み入れました。それは本当に手付かずの新しい世界。うさぎに似たフワフワの感触。吸い込まれそうな漆黒の中にはどんなものも描けそうです。 そう、やがて太陽が顔を出すまで、泣きながら歩き続けていようと思いました。