水玉物語#038ハピネス
砂嵐の向こうに その街はあるという この世界のあらゆる快楽を集めた街
そこは砂漠のどこかにある幻の街です。快楽の都と呼ばれ、そこにはこの世の快楽の全てが集まっていると言われています。多くの旅人が旅の最後に目指すと言われ、砂漠に出ますが、たどり着いたのか途中で果てたのか、戻ってきた者はいません。
チャイナドレスを着たこの子は小蝶(シャオデイ)。その街で働いています。もちろん好きで働いているわけではありません、かつて背負った快楽の代償として働かされているのです。この街にいるのはそんな奴らか、新しくやってきてカモにされる奴。言うことを聞かないと放り出される奴。この街を支配するのが誰なのかわからないけど、その手のものによって厳重に管理されています。快楽の都などと呼ばれるおとぎ話ではなく、人を欲望の代償に堕落させる街なのです。
小蝶も同様、ずいぶん前にここへたどり着き、快楽に溺れ、気が付いたらすべてを失っていました。でも小蝶はうまくやって、今は自分の店を持っています。稼いで、いつかここを出ようと思っています。
それは「蝶の巣」瓶に入った愛の蝶を売る店です。お客は瓶に入った蝶を買い、その蓋を開けると、その客の最も望む姿で現れ、無償の愛をくれるのです。赤いの、青いの、黒いのよりどりみどり。そこそこ繁盛しています。
小蝶は店の二階で蝶を育てています。広い部屋のような水槽の中で蝶たちは成長するまで飼われています。そして夕暮れ時に飛び立って愛の餌を別の世界から集めてきます。蜜のように。
「你好、小蝶。お茶でも飲ませてよ」
やってきたのは青龍(チンロン)です。小蝶と同じように借金のかたに働かせられている男です。素性はよく知らないけれど、もともとロクでもない仕事をしていたようです。この街では新しくやってきた客を案内して、うまく金を使わせる仕事をしています。調子が良く、知識が豊富で口が上手い。小蝶の店にもよく客を連れてきます。
二人は人前では口にしませんが、いつか準備ができたら、金を持って二人でこの街を逃げようと計画しています。計画はそこそこ進んでいます。でも問題はここを出てどこへ行くかということ。そもそも二人はここへ来る前の世界に行き場をなくしてここへ来ました。それでも捕らわれていると出ていきたいと思うのです。
「ねえ、私たちってよく考えると、捕らわれて、借金のかたに働かされているけど、首輪をつけられているわけでもないし、見張られているわけでもないし、特に不自由なく暮らしているし、逃げる必要あるのかな?」
「うん。それ俺も思う。今の仕事面白いし。合法的に悪いこともできる。でもなんだろうな、どこかへ行きたいって思うんだよね」
「ここにいてできないことってなんだろう?」
「それは一つだろう」
「なに?」
「正しいこと」
なるほど、と小蝶は思いました。確かにね。でも私たち正しいことがしたくて出て行くの?
「まあそう難しく考えなくても、人間ってそんなものさ。いつでもどこかへ行きたいって思っている。幻の憧れの街に命からがらたどり着いたら、ここは天国かって気が緩んで、何もかも無くしてしまう。でもそれもまたどこかへ行きたいからかもしれないよ」
「それじゃ、ずっと落ち着けないじゃない。」
「落ち着きたいの?」
うーん。
「でも、俺はとりあえず二人で旅がしたいな。宛もなく二人で手をつないで。なんか楽しそうじゃないか。それでお金に困ったら、いく先々で人を騙して、お金を稼いで、また気ままに旅をする」
「ここにいるのと変わらない気がするけど」
「でも、世界は広いから。まだ見ぬものがあるよ。未知のものに向かわないときっと人は生きられないんだ」
小蝶は店のカウンターに頬杖をついて、並んだガラス瓶を見ながら想像しました。
「蝶の巣」の店の蝶々たちを一斉に夕暮れの空に放して、その中に紛れて青龍と手をつないで逃げ出す。とてもとても綺麗な色とりどりの蝶が空に吸い込まれていくようすに人々は目を奪われ、時が止まるその間に。
そしていつかまた、ここに戻ってくるかもしれない。二人で、自分の意思で。手を繋いで。