水玉物語#040パラディシュナ
私の名前はカリン あなたのことをひと目見て 気に入ってしまったの
あるとき気がつくと、僕は見知らぬ部屋で目を覚ましました。まるで見覚えのない部屋でした。体を起こすと、目の前に僕をじっと見る、くるくると長い髪をした女がいました。 「私はカリン。こう見えても天使のはしくれなのよ。だから私に捕らわれたあなたは幸運なのよ」 話を聞くと、どうやら僕は知らぬ間にここに捕らわれているようです。 体がとても重くて、頭もぼんやりします。 「よくわからないのだけど。とにかくここから出して欲しいんだ。僕は大事な仕事に行かなくてはいけないんだよ」 でもカリンははぐらかすばかりで取り合いませんでした。 「別に、鎖をつけているわけでもないし、足枷だってないの。天窓からは光がいつでも入るし、バルコニーにだって出られるわ。でも、ここには外に繋がる扉だけはないの」 最初は何かの冗談だと思っていたけど、しばらくすると、僕は本当にここから出ることができないことに気がつきました。カリンが天使かどうかはわからないけれど。
それにしてもこの部屋には何もありません。広い床にベッドが置かれているだけで、他にはなにもないのです。唯一、ベランダに果実のなる鉢植えの木がありました。カリンは時々水をあげました。 「ねえ、教えてくれないか。どうして僕なんだ?」 「それは私が気に入ったからに決まっているわ。空から見ていてね、あの日あなたのことを見つけたの。それだけ」 カリンは体が透けて見えそうな白い服を着てクルクルと回りました。何を聞いても、似たような答えが返ってきて、何が真実かわかりません。 でも僕はだんだん日々を重ねていくと、ここは天国ではないかと思い始めました。お腹も減らないし、思い煩うことも面倒なことも何もない。カリンは僕を捕らえていると言っても、僕の心は少しも縛らない。心はいつもふわふわとしていて、高揚することも沈むこともない。もしかしたらこれが本当の自由なのではないかと。
するとカリンがどこからか一冊の本を持ってきました。そしてそれを声に出して読んで聞かせました。詩集のようです。よくわからない言葉が綴られていたれど、心地よい響きでした。 「それは何の本だい?」 「これは天国で私が書いた詩集よ」 「天国にも本があるんだね」 「何言っているの?天国は本だらけよ。だって暇なんだもの」 「君も本を書いていたの?」 「そうよ。これ一冊だけだけど」 「でもこれを書いたら、天国から追放されちゃったの」 「なぜ?」 「書いてはいけないことを書いたから。でもせいせいしたの、天国ってうるさいことばかりだから」 僕はそれ以上聞かなかったけど、 「でも僕にはカリンが読むその本は心地がよかったよ」 と言いました。 するとカリンは床に座ったままぽろぽろ泣きました。
僕は何も言えずに窓の外を眺めました。僕はカリンが僕を選んだ理由がわかったような気がしました。僕も物語を書いていたから。でもこの頃は自分がなにを書きたいのかわからなくなって、書けなくなっていました。
それからどれくらい経っただろう。僕たちはその部屋で長い時を過ごしました。
僕は少しずつ下界を忘れ、カリンも天国を忘れたようでした。
でもそうなると、僕らはふと、それじゃ、どこへ行くのかと思いました。ここはただの下界でも天国でもない閉ざされた扉のない部屋の中です。
「ねえ、カリン。これからどうするの?いつまでもここにいるわけにはいかないだろう?」
カリンは目を丸くして、キョトンとした顔で、
「どうして、ずっとここにいればいいばいいじゃない。ここは追放の時、永久に神様にもらったんだもん」
「でも、だからって、ここで何もせずに暮らすの?」
「何か問題でも? そうね、空想して暮らせばいいじゃない。どんなことでもできる。何にだってできる。恋だってできる冒険だってできる。生まれ変わることも、男にも女にもなれる。他に何もないから空想を食べて暮らせる」
カリンのその言葉を聞いて、
「なるほど」
と、僕は思いました。
僕はやっと、自分がなぜ物語を書いてきたのかわかった気がしました。きっと僕はいろんなものになって、いろんな人生を送りたかったのです。いろんな夢を叶えたかったのです。その中で知ること、見つけるものを見てみたかった。でも現実には僕らの人生は限られているし、演劇のように幕が開いて終わるわけにはいかない。いろんなものを巻き込んで残していく。だから僕は、物語の中で夢を叶えようと思った。その夢をいつのまにか忘れてしまっていた。
でも、本当にこれでいいのかな?
ある日、すごい嵐がきました。雷が方々で轟き、稲光は四方に伸び、風と雨が窓を叩きつけました。僕とカリンは身を寄せ合って、嵐が過ぎるのを待ちました。でも嵐はどんどんひどくなっていくようでした。 「カリン、もう僕たちはここまでかもしれないよ」 「どうして」 「ここには僕らを阻むものもないけど、僕らを守ってくれるものもない」 「守ってくれるものって?」 「僕らが煩わしいと思っているいろんなこと」 カリンは黙りました。僕も黙りました。嵐の音はまるで部屋の中に、僕らの中に入り込んできたほど大きく響きました。 とても恐ろしいと同時に僕らの存在はとても儚く脆いと思いました。僕らを守るものなど本当に何もないのだと。僕らの重ねてきた空想はこんな時には守ってくれないのだろうか。 僕は目を閉じて、何かを想像しようと試みました。すると、カリンが天使の羽を広げて空を飛んでいる姿が見えました。それはとても美しかった。やっぱり天使だったんだなと思いました。 気がつくと、僕の体は宙に浮いていいました。 カリンが僕を抱えて羽を広げ、嵐をくぐり雲の上まで飛んだのです。
雲に腰掛け、 「私にできることはこれしかないよ」少し悲しそうに肩をすくめてカリンは言いました。 空にはまだ月が残っていました。 「神様が追放しても、僕は君が好きだよ。はじめて気持ちが分かり合えると思った。誰かと分かり合えることがこれほど心地よいことだと知らなかった。嵐の中で一緒にいても、君と一緒にいることは何より心強かった」 と伝えました。
気がつくと、僕はあの真っ白な部屋に目を覚ましました。体のあちこちに痛みがありました。でも部屋には扉がありました。外に出る扉が。
僕はぼんやりと起き上がり、物語を書こうと思いました。
見ると窓辺の木に黄色の実が生っていました。嵐にも負けず、実は生っていました。その実を見たら、神様はカリンを追放したのではなく、僕に会うために地上に送ってくれたのではないかと。僕はただカリンに会うためにさまよっていたのではないかと、僕には思え、そんなお話を書こうと思いました。