水玉物語#067パラディシュナ
世界は雨が 降っているのに 私はお風呂に 入っている
ある朝わたしが目を覚ますと、美しかった世界は一変していた。 昨夜のうちに何かが起きたのか、私がどうかしているのか、わからない。電話をかけてもつながらない。 バルコニーから見渡すと、街の半分は壊れ、その残骸を冷たい雨が濡らしていた。かろうじて残っているのは私の眠っていた部屋とバスルームだけ。 いったい何が起きたのか見当もつかないけれど、一つだけわかっていることは、これは終わりではなく、おそらくさらなる非常事態への一時の休息。 あの空を飛ぶ鳥がそう物語っている。 私は部屋に戻るとベッドを整え、バスタブにお湯を張り、着ていた衣服を脱いで、呟いた。
世界は雨が降っているのに 私はお風呂に入っている
私はお湯をなでて泡を立てると、その中に沈み、本を開いた。 子供の頃から何度も読んでいる一番大好きな本を。 その本に出てくるのは王子様と不幸な境遇の娘。悪い魔女。魔法使い。お城。気のいい家臣たちや言葉を話す動物たち。もちろん最後はハッピーエンドになる。 「私がこの物語で一番好きなところはどこだと思う?」 私はふぅっと泡を吹いてシャボンを作り話しかける。 「幼い頃はね、最後のページよ。王子様が迎えに来て、お城で幸せになりました。めでたし、めでたし。ってところ。あの頃、人生は必ずハッピーエンドになるものだと思っていた」 次のシャボン玉。 「それから恋をしていた時は、二人が王子でもなく街の娘でもなく出会って、しばらくの間、二人で過ごす草原のページ。最高にロマンティックなの。このまま時が止まればいいと思っていた」 「失恋した時は娘がもう会えない王子を思って星を眺めるページ。そのあと、魔法使いが現れるのよ。願いはいつでも星が叶えてくれると信じていた」 「夢を追っている時は、王子が王様の命に背いて必死で町娘を探すシーン。懸命に行動すればなんでもできるって思ったわ」 「悲しいことがあった時は、娘が屋根裏部屋で動物たちと歌を歌うページ。どんなに辛い目にあっても、味方はいると」 「誰かを憎んでいる時は、悪い魔女が呪いをかけるページ。悪い魔女はこの本の中では悪役だけれど、この魔女の黒く醜い憎しみや妬みを強い呪いに変える力は爽快にも感じた」 私は天井からふわふわと落ちてくる最後の泡に向かって言った。 「私の人生のどんな時もこの本はその世界に私を連れて行って、休ませてくれた。その度に私はハッピーエンドを信じてここに戻ってきたの。ああ、なんて愛しい本。あなたがいなければ私はここにはいなかった」
世界は雨が降っているのに 私はお風呂に入っている 世界は雨が降っているのに 私は物語を抱いている
「ねえ、今回はどうかしら?」 私はそこで言葉を止め、本を閉じた。 「いけない、このままじゃ、のぼせちゃうわ」 私はゆっくりとバスタブから出ると、丁寧にやわらかいタオルで体を拭き、パウダーを叩き、バスローブを羽織って鏡に向かった。 そして丁寧にお化粧をした。 黒いまつ毛をカールして、最後に赤い赤いリップをつけた。 そして髪をとかし、一番好きな服に着替えて、鏡に向かって微笑んだ。 「こんにちは。そう、これが私」 でも私はわかっている。私たちはその物語の先へ行かなくてはいけない。別の扉を開けて、その向こうに行かなくてはいけない。 そのために戦わなくてはいけない、何かと。どんなことも乗り越えなくてはいけない。たった一人で。強い真を持って。そしてそれはできるはず。 永遠にとけない魔法を胸に抱いて。