水玉物語#087水玉国
朝のミルク 月の船 すべては乾いた 手のひらの上
ある朝早く、私たちはその橋の上で待ち合わせをしていました。けれど、約束の時間が来ても彼は姿を見せず、私は細く流れる川を見ながら、待ち続けました。 陽が高くなっても、彼は来ませんでした。連絡も取れませんでした。 そしてそのまま、彼はいなくなってしまったのです。 別れの言葉もなく、置き手紙もなく、消えてしまった。 私たちはとても仲が良かったのに。 彼がいなくなってから、私は彼と待ち合わせた橋の近くで、ぼんやりと川を見ていることしかできなくなりました。
私たちは子供のように一日中戯れ、 夜は手をつないで眠り、 嬉しいことがあると口づけた 言葉にしなくても心はつながり、 悲しいことがあれば抱き合えばよかった 二人でいると変わりゆく季節の変化や 空気の乾き具合がよくわかった それだけで胸がいっぱいになった あふれた思いを風に乗せ、 永遠にここにいたいと願ったけれど 時は川のように止まることはなく、 あなたはここからいなくなってしまった
「朝靄の国というのを君は知っているかい?」とその日、川辺で初めて会った男は私に聞きました。 私は知らないと首を振りました。 男は懐かしいものでも見るように目を細めて、 「朝靄の国は濃いミルク色をした靄に包まれた幻の国なんだよ」と言いました。 夜が明ける前のほんの十五分くらいの間だけ姿を現わすことのある、別の世界の美しい街につながる不思議な国なのだそうです。 「君の恋人はもしかしたら、朝靄の国に出くわし、その向こうに行ってしまったのかもしれないよ」 「それほど美しいの?」 私は男に聞きました。 「私も見たことがないから、わからんのだよ」 と男は答えました。 「あなたも誰かを失ったの?」 男はその問いには答えず、川に目線を戻しました。
それから私は毎朝、夜明け前に目を覚まし、川沿いの道を散歩することにしました。ぼんやりとした私の心には、朝の世界は眩しすぎたけど、夜が明ける前のひと時はどこまでも優しく思えました。 私の歩調に合わせて羽虫たちが粉雪のように舞い上がり、川は銀色の光に輝いて蛇行してどこまでも続いていました。咲いたばかりの小さな花が月明かりに青く光って足元を照らしてくれました。 男の言うような濃いミルク色の霧はなかなか現れず、朝霧の国へは辿り着けなかったけれど、少しずつ私は夜明け前の世界に馴染んでいきました。 時々、男に会いました。男は土手に座り、いつも川を眺めていました。私を見ると少し微笑み、またいつものように川に視線を戻しました。 男もまたここにしか希望がないのかもしれません。 夜がすっかり明ける頃、たどり着いた橋の上から川の向こうに上る赤い太陽を眺めました。 たとえ、どんなにその向こうの世界が美しいとしても、何も言わずに行ってしまうなんてひどいわ。私たちはあんなに仲が良かったのに。永遠だって願ったのに。と小さく彼を恨みました。 そして明日もここへ来ようと、そしていつかこの場所はあなたにつながるかもしれないと思うと、心が温かく戻りました。 私は少しずつ自分を取り戻しているのでしょうか?いつか希望を持てるのでしょうか?太陽は私に前を向いて進めと言っているようで、少し苦しい気持ちになります。前を向いて進むことが大事なのはわかっているの。けれど、私はどうしても忘れることなどできない。
その朝、目を覚まして外に出ると、濃いミルク色の朝靄が立ち込めていました。私は胸をドキドキさせながら、その中を歩いて行きました。朝靄の立ち込めた道はいつも道とは違い、夢の中を歩いているようでした。 私にはわかりました。ここはもう朝靄の国だと。 ゆっくり橋まで歩き、その向こうを見ると、橋の向こうに見たことのない街が見えました。 「なんて美しい街」 朝靄に霞んだ、色とりどりの屋根が丘陵上に並んだその街は、私の心を一瞬で捉え、手を伸ばしたくなるほどの、懐かしいような、恋しいような気持ちに誘いました。 私は悟りました。彼はこの景色を見て、この橋を渡らずにはいられなかったのだと。そしてもし私が逆の立場でも、彼を残してこの橋を渡ったでしょう。 私は胸を押さえると、やはり私たちは同じ心でつながっていたと思いました。私はただ彼の気持ちを理解したかったのです。
人にはどうやっても抗えない、心惹かれるものがある。一度見たら忘れられないくらい、胸を打つものがある。その時はそこへ行くべきなのです。それが道なのです。すべてはその先にあるのです。
私はゆっくりと一歩を踏み出しました。この靄が消えてしまう前にこの橋を渡り切るために。