水玉国

水玉物語#065ファラウェル

遠い昔か
未来のことか
あの時も
二人でいたね

 セルは朝から少し気が重かった。今日から新しい学園生活がはじまるのに、胸元のタイがあまりうまく結べなかったから。どうしても気になって裏庭にある、大きな樹の下で結び直していると、クスクス笑う声がして、現れた背の高い、同じ制服を着た少年が、何も言わず手を伸ばしてタイを直してくれた。そして肩をポンと叩くと、見惚れるような微笑みを残して去っていった。セルはあっけにとられて、しばらく彼の消えた方向を見ていたけれど、始業ベルがなったので、慌てて講堂へと急いだ。

 ここは名門と名高い全寮制の男子校で、これから6年間をすごす。伝統のある校舎は重苦しいほど立派で、厳しい規則や規律にはうんざりするけど、クラスメイトも寮の仲間もいい奴ばかりでなんとかやっていけそうだと思った。

 セルはたくさんの女ばかりの環境で育ったので、同年代の男の子たちに少し驚いた。もちろんセルの町にもたくさんの男の子がいたけれど、朝から晩まで共に暮らしたのははじめてだったから。いろいろなことに驚かされた。簡単に言うと、女の子に比べて彼らは単純だし、細かいことにも拘らないし、面倒なことも言わない。とにかく楽なのだ。女兄弟たちにあれこれ面倒なことを言われていたセルは厳しい学園や寮の規則の代わりに、男の子たちと暮らす自由さを手に入れた。

 そんな学園生活に慣れた頃、セルは講堂に向かう回廊で、この学園へ来た初日にタイを直してくれた少年を初めて見かけた。「あれは誰かな?」隣にいるクラスメイトに尋ねると、「あれは二学年上のシルクだよ。有名じゃないか、君は知らないの?彼がどうかした?」「ううん、あまり見かけないから」と僕はその姿を目に追いながら答えた。

 セルは後から知ったのだけど、彼はこの学園の中では異質の存在で、みんな遠巻きに見るだけで、近づこうはせず、でも、いつもどこかで気にしていた。簡単にいえば、彼は容姿端麗で優秀で家柄も良く、それなのに、誰とも群れず、いつも一人でいた。授業に出ないことも多く、寮以外の場所で暮らすことも許されていた。
もちろんセルはシルクとあの日以外話すこともなく過ごした。

 その翌年、図書委員になったセルは、放課後カウンターに座っていた。図書館はあと一時間ほどで閉館で、人影は無かった。セルの手には一冊の冊子がった。それは「水玉国」という冊子で。今学園でみんなが夢中になっているものだ。ガリ版刷りの薄い冊子なのだけど、どこかの国の、僕らと同じような学園に暮らす少年たちのお話が書かれている。僕らと違って彼らは自由で、寮を抜け出して街へ繰り出したり、隠れて悪いことをしたり、そうかと思うと、おとぎ話のような世界に足を踏み入れる。そのバランスが絶妙で、現実と幻想の間で僕たちに程よい休息をくれる。女の子が出てこないのもいい。

「水玉国」は不定期に刊行され、いつのまにか生徒たちの手に渡っている。どこから発刊され、誰の手に渡って広まっているのかもわからない。けれど、いつのまにか、僕らの生活にはなくてはならないものになったし、その中のある種の空気や人物たちの考え方なんかが、僕ら自身に少しずつ浸透していった。
 その日、セルがぼんやり方杖をついて、窓から入る夕刻の光を見ていると、
「まだ、いいかな」
と声をかけられ、目をあげるとそれはあのシルクだった。セルは思わず赤くなって、
「うん。あと30分あるよ。それにもし必要ならもう少し遅くできるけど」と上ずった声で答えた。シルクは「ありがとう」と微笑むと、本棚の中に消えていった。

 それから一時間ほどしてもシルクは現れなかったので、セルは心配になって、本棚に囲まれた通路を歩いてシルクを探した。
シルクはある棚の前で立ち止まってじっと一冊の本を見ていた。
セルはなんとなくその姿を見るだけでドキドキしながら、近づいた。同じ学生なのに、彼が何か僕にしたわけでもないのに、どうしてドキドキするんだろうと思ったけど。

「もうそろそろ閉めるけど」と声をかけた。
シルクはゆっくりセルを見ると、
「ああ、わざわざ呼びに来てくれたのか。ありがとう」
「なんの本を見ているの?」セルは聞いた。
「これだよ」
シルクは一冊の本を手に取った。その本は古く、表紙の布は擦り切れていた。
金色の文字で「水玉国」と書かれていた。
「これと同じだ」
セルは上着の内ポケットに入れていた冊子を取り出した。
「そうだね」

「少し付き合ってもらえると嬉しいんだけど」

 二人は持ち出し禁止のその本を棚に戻すと、図書室の鍵を閉めて、旧校舎の隅にある、使っていない建物に入り込んだ。シルクはどこからか鍵を取り出して、錆び付いた重たい扉を開けた。「君はいったい」セルが驚いて言うと、シルクは唇に指を立てて、詮索無用と目で合図した。

 そこは昔の印刷場のようだ。埃をかぶった機械たちと、かすかにインクの匂いがした。天井の高い建物の上に位置する曇りガラスをはめ込んだ窓から入り込む光はすでに赤い。

「こっちだよ」シルクはセルを連れて奥に進むと、その奥に大きなテーブルといくつかの椅子が置かれていた。テーブルは最近も使われているようで、綺麗に磨かれ、椅子も張り直されていた。シルクはセルに椅子に座るように促すと、マッチを擦って火をつけ、温かい紅茶を入れた。

「つまり、君がこの冊子を作っているの?」
「答えはイエス」
「なんのために?」
シルクは首をすくめ、答えず、かわりに「君に手伝って欲しいんだ」と言った。

「つまりこの本に書かれた物語を現代的に書き直しているということかい?」
「まぁ、そうだね。」
「ぼくは君が物語を書いているのかと思ったよ」
「なぜ?」
「なんとなく、その方がしっくりくるからさ」
シルクは嬉しそうに笑って、ポケットからチョコレートバーを取り出すと僕に手渡した。「なんだい?」「ほんのお礼だよ」

 その日から、セルは放課後、みんなには内緒でこの場所でシルクの手伝いをすることになった。シルクは図書館で見たあの古い本の内容をすべて暗記していて、その中から最近の学園に起きている出来事に近いものを選び、言葉を足したり引いたり、変えたりして、僕らの心をとらえる物語を組み立てた。僕はシルクの言葉で綴られる話を聞きながら、質問したり、感想を言ったりした。読者代表というわけだ。シルクはそれを丁寧に聞いて、お話を膨らませたり、削ったり、時にはまるごと書きかえることもあった。

 セルは薄暗い、埃の舞う、長い間使われていないその場所にいて、無限の世界を二人で旅しているようだと思い、版にインクを乗せながら言った。




 

「ねえ、遠い昔、っていうのも変だけどさ。いつかどこかで、君とこうしていた気がするんだ。君がお話を書いて、僕がそれを聞いて質問して、そうすると君が答えて、物語が進んでいくんだ。いく日もいく日も僕たちはそうやって過ごしてきたような気がするんだ。不思議だよ」

「それは不思議だ。他にはどんなことを思い出すの?」
シルクは僕の前でペンを動かしながら、楽しそうに訪ねた。

「それは、なぜか外なんだ。広い広い草原と大きな木があって、空には明るいのに星がすぐ近くに浮かんでいて、綿毛のようなシャボンのようなものが草原から立ち上っている。大きな木の下にこれと同じような大きなテーブルが置いてあって、いつもお茶が用意されていて、君は物語を書いている」

 セルは鮮明に浮かんでくる風景に驚きながらも深い懐かしさを感じた。

「ねえ、君はそう思ったりしない?」
セルはシルクが、君はロマンティストだなぁと笑い飛ばすかと思ったけれど、シルクは静かに頬杖をついて、セルをまっすぐ見て、
「それがあの時、僕と君が夢見た水玉国だよ」
と言った。

 セルはシルクのその目と、その声と、その言葉と、たくさんの書かれた物語と散らばった印刷物と、その時のすべての重なりに

「永遠」と思わず口にした。
 あの時、まだ世界の本当の姿を知らなかった僕に、君は言ったよね。僕らの世界はすべてを失ったわけじゃない、まだ夢がこんなに残っている。僕たちはここで僕らのいつかの未来を描いているんだよ。今は何もなくても、この物語が未来を作るから。さあ、ここに座って、楽しい夢を見よう。ここから始まる永遠の物語を。
シルクは微笑んだ。たぶん、あの時と同じように。

あの黄緑色の野原で
来る日も来る日も
風に吹かれたように